カルカソンヌ滞在最後の日。
トランカヴェル家の居城であるコンタル城を見上げるカフェで、氷河と瞬は午後のティータイムを――もとい、瞬はティータイムを、氷河はコーヒーブレイクを――楽しんでいた。
おそらくこれがこの城塞都市の中に足を運ぶ最後の機会ということになるはずだった。
「結局金髪の騎士の亡霊には会えなかったね」
口振りだけは残念そうだが、その手のものが大嫌いな瞬の瞳は、ごまかしようもなく輝いている。
「どれほどいい男の亡霊なのかは知らないが、俺には敵わないとみて、雲を霞と逃げ出したんだろう」
「それなら僕、ここに氷河と来たのは正解だったのかな」
亡霊に会わずに済んだのが余程嬉しかったのか、いつもなら氷河の驕りに即座に異を唱える瞬が、今日は妙に素直に微笑んで言う。
瞬のそういう反応に慣れていない氷河の方が、かえって面食らってしまった。
困惑した氷河の顔を見て、瞬がまたくすくすと忍び笑いを洩らし、瞬にからかわれたのだと気付いた氷河は、少しばかりむっとした。
で、反撃に出る。
「本当にそう思うのなら、瞬。今夜、俺とカルカソンヌ最後の夜の思い出を作ろう。忘れられない夜にしてやるから」
「明日また十何時間も車の運転するんでしょう? 今夜は早く眠った方がいいですよ。僕が国際ライセンス持ってないこと、忘れないでくださいね。死ぬ時は畳の上って決めてるんだから、僕」
「おまえ、俺の体力をそこいらの男と一緒にする気か? ベッドの上で俺に殺されてみるのも乙なものだと思うが」
「氷河は……っ !! 」
氷河の軽口に、瞬が真っ赤になってテーブルを立つ。
「氷河は、どーしてそう下品なことを、こんな時刻にこんな場所で言うんですかっ !! 」
『言い方が下品なのであって、言っていることが下品なのではない』とか、『時と場所を選べばそんなことを言ってもいいのか』とか、そんな氷河の弁解もからかいも、瞬は受け付けるつもりがないらしい。
見ている方が恥ずかしくなるくらい頬を紅く染めて、瞬はさっさと一人でカフェを出ていってしまった。
怒りを乗せた早足でコンタル城の脇の路地に入っていく瞬を、氷河は慌てて追いかけたのである。
「瞬! おい、待て、謝るから。しゅーん、おまえは敵をも許す寛大さが売りの心優しい聖闘士のはずだろう !? 」
「これまで、そう言って泣きつかれるたび、氷河を許してきたのが間違いだったと、今悟りましたっ!」
追いかけてくる男を振り返りもせずに、瞬はどんどん狭い路地を通り抜けていく。
曲がり角の多い中世の石造りの街並の中で、氷河と瞬の追いかけっこは10分ほど続いた。
瞬は氷河が追いかけてくることを知っていたし、氷河は瞬が知ってくれていることを知っていた。
それは、遊び慣れたゲームのようなものだったのである。
コンタル城の正面の高い尖塔の前に立つ瞬の姿を見付けた時、だから、氷河は、これまで何十回となく繰り返してきたゲームが終わったのだと思った。
「瞬、機嫌はもう直ったのか? ……瞬?」
20メートル近い高塔の上を、瞬は凝視していた。
そして、氷河は、瞬がゲームを終えようとして終えたのではないことに気付いたのである。
塔の上に、鈍く光る銀色の何かをまとった男の姿があった。
(甲冑……か、あれは……)
その姿は、しかし、すぐに塔の上から消えた。そして、それは次の瞬間、塔の下に現れた。
2メートルも離れていないところに幻影のように現れた中世の騎士に、瞬は息を飲んでいる。
足が竦んでいるのか、あれほど恐れていた亡霊の前から、逃げ出すこともできずにいるようだった。
亡霊の横顔は、ミロが言っていた通り、なるほど氷河に似ていた。
その視線が――亡霊に視線があるのなら――まっすぐ瞬に向けられているのだ。
「瞬……! こっちに来い!」
まるで亡霊の眼差しに射竦められているようだった瞬は、氷河の声で、はっと我に返った。
「氷河っ !! 」
弾かれたようにその場から駆け出した瞬が、氷河の胸に飛び込んでくる。
瞬は、それがどれほどいい男でも、やはり、亡霊よりは、品のない口説きを続ける生身の男の方がいいらしかった。
亡霊は、瞬の肩を抱きとめた氷河に視線を向けている。
金色の髪と青い瞳。たしかにその目鼻立ちは、何か因縁があるのではないかと思うほどに氷河に似ていた。
だが、今は、亡霊の正体の追求より、瞬を落ち着かせることの方が先である。
瞬は、本気で怖がっているようだった。その肩が小刻みに震えているのがわかる。
瞬を射竦めていた亡霊の眼差しは、確かに、死線を越えてきた者のそれのように鋭く隙のないものだったが、邪悪も害意も感じられなかった。
瞬がこれほどまでに恐れるようなどんな力も、氷河はこの亡霊に感じとることはできなかった。
「やだ、やだ、氷河、この人、追いはらって!」
瞬はまるで人さらいに出会った子供のように怯え、氷河に訴えてくるその声も、ほとんど泣き声に近かった。
「生きてるわけじゃない。そんなに怖がるな」
「生きてるんなら、僕だって怖くないよっ !! 」
必死の思いで氷河にしがみついたまま、瞬は氷河の胸を怒鳴りつけた。
小宇宙などとは違う、凄まじいまでの思念。亡霊の周りにある、この張り詰めた空気の痛みが、何故氷河にはわからないのかと、瞬は苛立ちを覚えた。
が、それより何より瞬を恐れさせたのは、亡霊がまとっている生と死と、そして、官能の香り、だった。
それは、氷河に見詰められている時、瞬がいつも彼の視線の中に感じている香りではあった。
瞬はいつもその香りに緊張を強いられていたが、ある意味、それは瞬の身体に馴染んだ香りでもあった。
だが、今亡霊の眼差しに感じるそれは、氷河のそれよりはるかに強く、はるかに直截的だった。しかも、死の香りが混じっている。
生気に満ちた氷河の瞳の熱っぽさとの最も大きなその違いが、瞬に、氷河の胸を安全な避難場所に思わせていた。
「氷河、早く、この人追いはらってっ!」
瞬の再度の懇願と、瞬を抱く氷河の腕に強い力が加わったのが、ほぼ同時。
瞬は、そして、亡霊と対峙する恐怖の場面にふさわしいとも思えない氷河の囁きを聞くことになった。
「シュン、愛している」
幽霊のいる場所で愛の告白をする男の神経を疑って、瞬の内に怒りが湧き起こってくる。
「氷河っ! なにふざけてるのっ! こんな時にっ !! 」
それでも氷河にしがみついたままで瞬は顔を上げ――そうして、瞬は、自分が亡霊に抱きしめられていることに気付いた。
瞬を抱きしめている腕は、確かに氷河のものである。
その髪も、その瞳の色も、唇も。
ただ眼差しだけが違っていた。
ゆっくりと、氷河の唇が、亡霊の意思によって、瞬の唇に近付いてくる。
瞬に、逃げる場所はもうなかった。
その熱と感触だけは氷河のものなのだろう。
息も詰まりそうな口付けを、瞬はその唇に受け入れさせられていた。
(やだ……僕、幽霊にキスされてる……)
薄らぐ意識の中で瞬は、こんなことなら氷河が氷河でいる時に、キスだけでもしておいてもらうのだった――と、妙なことを考えていた。






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