「ユーグ! おまえは何度呼ばれれば、自分の名を思い出すんだ !? 」
怒っているというよりは、ほとんど呆れ果てているような声が、ふいにユーグの意識を現実に引き戻す。
声のした方に視線を巡らすと、そこにはアルビジョア十字軍の総司令官が立っていた。
四十を軽く越えているとは思えない精悍な身体は、幾つもの戦場を駆け抜けてきた歴戦の勇士の面目躍如といったところで、この伯父に、
『我が生命の全てをして、聖戦の成功をお誓い申し上げます』
などと言われた日には、法王もころりと騙されようというものだった。
その“十字軍の獅子”が、さすがにかぶとまでは着けていなかったが、鎧の上に肩布をまとった出で立ちで、ひとりユーグの前に仁王立ちに立っていた。
「ユーグ。次の攻撃目標はカバレ城塞だ。おまえは戦闘に加わるか?」
相変わらず単刀直入な物言いである。
ユーグは横に首を振った。
騎士でもなく兵ですらない無力な者たちの虐殺に加担するつもりはない。
ユーグの無言の返答に、シモンは肩で大きく溜め息をついた。
そして、十字軍司令官から、ユーグの伯父へと表情を変える。
「ユーグ。おまえ、イル・ド・フランスへ帰れ。あの子を連れて」
それまで気だるさに支配されて、総司令官の登場にも緊張できずにいたユーグは、初めてまともに伯父の上に視点を結んだ。
「伯父殿……」
「闘いに加わらぬ騎士などいらぬ。おまえが噂ばかりの騎士と侮られるのにも腹が立つ。幸い、我が軍の進行は順調すぎるほど順調だ。カルカソンヌという、本営に最適な城も手に入った」
「これからもそうとは限るまい」
伯父にどういう顔を向ければいいのかが、ユーグはわからなかった。
だから彼は無表情にそれだけを言った。
甥の無愛想や不器用を心得ているシモンが、感情の色のないユーグを見て、心配そうに笑う。
「おまえは元々レーモン・ロジェの腕を確かめたくて、ここまで付いてきただけだろう。こんな一方的な虐殺は、おまえ向きではない」
「……」
神のための聖戦と謳っている闘いを“一方的な虐殺”と言いきる指揮官――。
ユーグはこの伯父が好きだった。
幼くして両親を亡くしたユーグを引き取り育ててくれた恩というだけではなく、ユーグはこの伯父に、人の生き方の一つの方向を――その是非はともかく――教えてもらったのである。
シモンは、ローマ教会の救世主と呼ばれているが、彼自身にはさほど信仰心があるわけではなかった。
嘘言も吐くし、卑怯なこともすれば、無慈悲なところがないわけでもない。
ただ彼は、神の加護よりも、自身の努力の方が、人間の人生には大きな意義があるという真実を知っているのだ。
自分のしていることが残虐だということも、彼に指令官の地位を下したローマ教会の卑俗もわかっていて、それでもなお彼は、自分の欲するものを得るための戦いを続ける。
シモンの部下たちがそんな彼についていくのは、彼が身内の者には優しいからだった。
会って話したこともない異端の町の敬虔なカタリ派信者ならその死に痛みは感じないが、自軍の酒癖の悪い兵の喉の渇きを癒すためになら、水を一杯汲んでくるくらいのことは気安くやってのける。
シモンはそういう男だった。
だからこそ、つい数日前までは不倶戴天の敵だったトランカヴェル家の生き残りを連れて、イル・ド・フランスの村に逃れよ――と、彼は言うのだ。
甥の思い人は、それだけでもう彼の身内なのである。
「……いや。ここからは離れられない」
ここを離れ、シュンを知る者のいない土地に彼を連れていけば、シュンも平穏な一生を過ごすことができるかもしれない。
シュンが、兄の死、信仰を共にした仲間たちの死を忘れることができさえすれば。
だが、それはありえないことだろう。
だいいち、今頃シュンがその胸に刻み込んでいる、彼の生きる目的は――。
(兄の城の奪還か、仲間や領民の救済か、下手をすると十字軍への復讐だ)
しかし、それを、今のシュンから奪い取るわけにはいかないではないか。
シモンにはシモンの生きる目的があるように、シュンにはシュンの生きる目的があるのだ。
シュンにだけ、それを捨てろと言うのは不公平というものである。
「ここにいる……」
甥の瞳を覆う翳りを見て、シモンは、彼の恋路が思ったよりも険しいものであることを察した。
(さすがに、ユーグに一瞥されるだけで失神するような女共とは訳が違う……か)
可愛い甥が、いい歳をして、生まれて初めての恋患いに悩んでいるのである。
シモンは、ユーグの憂い顔をどうにかしてやりたかった。
が、こればかりは第三者にどうこうできる問題ではない。
「おまえがあの子のために何をしようと、大概のことは大目に見てやるが、もし、おまえが私の進む道を邪魔だてするようなことになったら、私は、それがおまえでも決して許さん。それだけは覚えておけ」
それが、気に入りの甥へのシモンの激励だった。
そして、恋煩いにかかっている騎士などまともに見ていられるかと言わんばかりの態度で、彼はユーグに背を向けた。
「残るなら、形だけでも戦闘に参加しろ」
それが、シモンの、アルビジョア十字軍司令官らしい唯一の台詞だった。






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