「ダフネ様」 それでも そのまま狂ってしまうには、ダフネの精神はあまりにも健康すぎたのである。 神殿の巫女に名を呼ばれ意識を取り戻した時、ダフネの身体にはダフネの心が戻ってきていた。 そして、その心にはレウキッポスを求める思いだけが、抑えようもなく燃えあがっていたのである。 「ダフネ様、お召しものを」 ついこの間までダフネをお転婆娘と馬鹿にしていた巫女の一人が ダフネの足許に跪き、 「アポロンはどこ」 「中庭にいらっしゃいます。アポロン様はダフネ様をデルポイの神殿にお連れ申しあげるとのこと。ご用意をお早く」 「そんな用意はいらない」 ダフネは巫女たちが捧げ持っている衣装ではなく、先刻 アポロンに引き裂かれた衣装を身に着けると、足早に神殿の中庭に向かった。 ペーネイオス神殿の中庭は、河の神の神殿らしく、神殿中の水路の源となる泉が中心にあった。 夕闇が、静かに辺りを包み始めている。 ほんの数刻前、ダフネの心はレウキッポスの求愛に揺れ動いていた。 その同じ一日のうちに、なんとすべてが変わってしまったことだろう。 アポロンは泉の近くの石段に腰をおろし、ペーネイオス神殿の庭を堪能していたようだった。 ダフネの姿を認めると、彼は満面の笑みをたたえ、その両腕をダフネに向かって差しのべてきた。 「ダフネ、我が愛しい恋人よ。そなたを育んだテッサリアの国は、なかなか素晴らしい所だな。この泉と水路の工夫は、ぜひ私の神殿にも採用したいと考えていたところだ。私の神殿に暮らすようになっても、そなたが故郷を懐かしむことができるように」 いったいこの神は、身体を意のままにすれば、その心までも手に入れられるのだとでも思い込んでいるのだろうか。 それとも、すべての人間は、神に愛されることを無条件に喜ぶものだと信じているのだろうか。 ダフネは、狂人を見るような目で、予言の神を見据えた。 「残酷で、ご親切で、寛大なアポロン様。あなたのおかげで、私は、自分がどれほどレウキッポスを愛していたのかを知ることができました。レウキッポス自身にもできなかったことです。さすがに神の力は偉大だと、認識を新たにしました」 アポロンは、ダフネのすべてを──その心までも──自分のものにできたと、微塵の疑いもなく信じていたものらしい。 彼は、まるで愚者の たわ言を聞くような目をして、ダフネの皮肉に苦笑した。 「頑ななダフネ。なぜ そんな愚かなことを言うのだ? いったい何が不足なのだ? そなたは、アポロンの恋人という地位などでは満足できないというのか? 無力な人間の身で、これ以上の立場を望むのは傲慢なことだとは思わぬのか?」 まるで違う世界の言葉で会話をしているようだと、ダフネは思った。 神に愛されている者が他の人間を恋することなど、アポロンの世界ではありえないことであるらしい。 「私の望みはレウキッポスと共に生きることです」 「あの若者は死んだと言ったろう。あの者は、なぜ自分が殺されるのかも知らぬまま息絶えたろう。自分の死の意味も知らずに死ぬとは、まったく虫けらのようなものだ。その程度のものだったのだよ、あの人間は」 「死の意味なんか、私だって知らない。私とレウキッポスは生きることだけを――生きて幸せになることだけを考え続けていたもの……!」 こんなことになるのだったら、もっと早く素直になって、レウキッポスの腕にすべてを投げ出していればよかった――。 ダフネは今、自らの臆病を悔やんでいた。 そして、ダフネが そんなふうに かつての己れの幼さを後悔するのも、生きて幸福になることを望んでいるからだった。 レウキッポスがいない今となっては、それは望んでも叶わない夢ではあったが。 レウキッポスがいないのなら、優しい心を持つ必要もない。 ダフネの中に今あるのは、復讐を望む憎しみの心と、一刻も早くレウキッポスの許に行きたいという、死を望む絶望の思いだけだった。 「では、同じことを私のために考えるがいい。考える必要もないことだがな。私以上にそなたを幸福にしてやれる者などいるはずもないのだから」 理解し難い笑みを浮かべるアポロンを、ダフネは冷ややかに見詰め返した。 もう何も恐いものなどない。 右の腕を真っすぐにのばしアポロンを指差すと、ダフネは、抑えた声で、だが、はっきりと言った。 「傲慢な神! 私がレウキッポスに与えるはずだったものをすべて奪い取ったゼウスの息子! 予言の神に、私は予言する。あなたの恋はいつも悲しみに終わるだろう。あなたの愛は、決して喜びに包まれることはないだろう。私にはそれがわかる。あなたは、愛の意味も、何のために人が人を愛するのかも知らないのだから。ゼウスの息子としての権威と、神としての栄光はあなたのものかもしれないが、愛だけは──愛だけは、決して あなたのものにならない!」 「ダフネ……」 つい先程まで圧倒的な力で組み敷き支配していた華奢な少女の唇から吐き出された言葉に驚いて、アポロンは その目を見開いた。 「いったい なぜそのようなことを言うのだ。神を侮辱して、無事でいられると思っているのか」 いったい何故そんなことを言うのか――。 その訳をアポロンに説明してやる親切心を、ダフネは持ち合わせていなかった。 そして 神を──よりにもよって大神ゼウスの息子を非難して、我が身が無事でいられるとも思っていなかった。 ダフネは もうアポロンには見向きもせず、天を仰いだ。 「大神ゼウス! あなたの息子に呪いの言葉を吐いた卑小な人間の命を奪いなさい! 私は神の力など少しも怖れない!」 「ダフネ!」 華奢で小さく、自然に溶け込んでいた可憐な少女──そう思っていたダフネの、まるで炎の燃え立つような美しさに、アポロンは圧倒された。 彼は、そして、従前とはまた違った恋情を、ダフネに抱くことになった。 美しい少女を愛しむというより、彼女の前に跪いて愛を乞いたいような衝動を。 そして、やはりこの少女は神の恋人にふさわしい存在だと、改めて確信したのである。 アポロンは、まさか父なる神が、ダフネの望む通りに彼女の命を奪うことなどあるはずがないと思っていた。 どれほどダフネが神を侮り怖れないといっても、それは何の力も持たない、たった一人の小さな少女のことなのである。 力ある神が──ましてや、神々の父である大神ゼウスが、そんな少女の叫びを真面目に受けとめるなど、アポロンには思いもよらないことだった。 しかし、大神ゼウスは、アポロンほどには人間の力を見くびってはいなかったのである。 ダフネの願いを、ゼウスは即座に聞き入れた。 神にしか見えないゼウスの雷鎚――神々を心胆寒からしめた巨人族を滅ぼすのに用いられたものと同じ雷鎚――が、ダフネの細い身体を貫くのを、アポロンは 信じ難いものを見る思いで見ることになった。 ダフネが地に崩れ落ち、その香しい吐息がすぐに途絶える。 もう決して開かれないダフネの瞼、青白い頬と、未だ つややかに長い緑の髪──を、アポロンは呆然と見おろすばかりだった。 それは愛ではないとダフネは言うが、それでもアポロンはダフネを愛しているつもりでいた。 初めての恋だと思っていた。 テンペ渓谷で、緑の木洩れ陽を浴びながら レウキッポスと語らっているダフネを初めて垣間見た時、少女はどんな女神にもない溌刺とした生気をたたえ輝いていたから。 「ダフネ……」 まだ微かに温もりの残るダフネの身体を抱き起こし、抱きしめ、アポロンは自らの悲嘆を耐えるべく目を閉じた。 アポロンを苦しめたのは、それでもやはり、ダフネの不幸ではなく、彼自身の不運だった。 ダフネの予言と その意味は、神であるアポロンには到底理解できないものだったのである。 ヒュアキントス、キュパリッソス、ヒュメナイオス、カッサンドラ――この後、彼は彼の愛した者──あるいは、愛したつもりでいた者たち、恋した者たち──あるいは、恋したつもりでいた者たち――を、ことごとく失うことになる。 ダフネの叫びを、すべての神々が聞いていた。 それを ちっぽけな人間の傲慢と思い、その傲慢に憤る神々がほとんどだったが、大神ゼウスとその妻へラ、そしてアテナ・パラス等少数の思慮深い神たちは、ダフネのその言葉を深刻に受けとめていたのである。 彼等はつまり、人間が神々の力を怖れず、人間自身の力だけで生きていこうとし始めたら、神の存在がどんなものになってしまうのかを知っている神々だった。 そして、人間の存在があって初めて、神も存在するのだということを知っている神々だった。 人間は神がいなくても自身の力で存在し続けることができるが、神はそうではないのである。 神を畏れ敬う人間の存在があって初めて、神は神たりえるのだ。 巨人族を滅ぼして世界の支配者としての地位を手に入れた神々だけに、彼等は、自分たちが人間によって滅ぼされる時の到来を考えずにはいられなかったのである。 ダフネの叫びは、神々の支配する世界が崩壊に至るまでの長い時間の、最初の一瞬を刻むものだった。 |