その夜遅く、シュンは鷺の翼の羽ばたきの音で目を覚ました。
「では、お兄様、私はこのままラトモスの山に戻ります」
「おまえの幸福を祈っている、セレネ」
兄妹神の声が、寝室のバルコニーの方から聞こえてくる。
シュンは慌てて、寝台の上に身体を起こした。
(ヘリオス……!)
ヘリオスがオリュンポスに出掛けてから、なぜか不安に捉われて眠ることができずにいたシュンは、ヘリオスの低い声に安堵の息を洩らしたのである。
ヘリオスの姿を求め、シュンが寝台を抜け出ようとした時にはもう、ヘリオスがシュンの枕許に立っていた。

「思ったより早く片付いた」
言うなりヘリオスはシュンの肩を押しやって、シュンの身体を横にしてしまった。
ヘリオスの指が、シュンの首筋をなぞる。
「あ……」
では自分は、これまでの夜と同じように、ヘリオスと身体を交えてから不安のない眠りに就けるのだと シュンは心を安んじ──そうしてから、シュンはヘリオスの額に生々しい裂傷があるのに気付いたのだった。

「ヘリオス! その傷、いったいどうしたの !? 」
ヘリオスに危害を加えることのできる神も人間も、この世に存在するはずがない。
いったいなぜそんなものがヘリオスの額に刻まれることになったのか、シュンには訳がわからなかった。
「ゼウスとの契約の印だ」
ヘリオスは額の裂傷のことなど気にかけたふうもなく、シュンの耳許に唇を寄せてきた。
「私のシュン。永遠の命をおまえの唇に──」
低く、そう囁き、ヘリオスがシュンに口付ける。
途端にシュンは息苦しさを感じ、胸が圧迫され、鼓動が激しくなったような感覚に捉われた。
初めてヘリオスを受け入れた時、自分の何が変わってしまったわけでもないのに、すべてが変わってしまったような錯覚を覚えた、あの時のように。

「ヘリオ……ス、胸が苦し……」
すがるようにヘリオスの肩に手をのばしたシュンは、彼の肩にかかる黄金の髪がそこにないことに気付いた。
月にすら眩しく輝いていた あの金髪が、そして、陽光を映しとったように明るくきらめいていたあの瞳が、シュンの目の前で徐々に闇の色に変わっていく。
「ヘリオス! ヘリオス……!」
信じられないものを見る思いで、変わっていくヘリオスの姿を見詰めていたシュンに、当のヘリオスが逆に尋ねてくる。
「シュン。苦しいのか?」
その時には既に、シュンの胸苦しさは嘘のように消えてしまっていた。

「僕……は、もう平気。けど、ヘリオスが……」
「なんでもない」
「なんでもないなんてこと……」
闇の色の髪、闇の色の瞳になっても、ヘリオスの落ち着いた表情と声は変わらない。
瞳にだけ見え隠れする熱っぽさも、夕べまでの彼と少しの違いもない。
ヘリオスはシュンの頬を両手で包み、僅かに微笑んで、シュンに告げた。

「太陽神としての神格を、ゼウスの息子に与えてきた。引き替えに、おまえに永遠の若さと命を与える聖約を、ゼウスと交わしてきたんだ。シュン、おまえはたった今から、死すべきものではなくなった」
「太陽神としての神格……ヘリオス…… !? 」
瞳を見開いて、シュンが震える指をヘリオスの髪に絡ませる。
シュンの驚愕を和らげるためか、ヘリオスはことさら何気なさを装っていた。

「それほど重大なことではないんだ。神々の間ではよくあることだ。ゼウスがクロノスから神々の父の座を奪ったように、ポセイドンはオケアノスから海神の座を奪った。大地母神の座は、ガイアからレアに、レアからデメテルに受け継がれている。アポロンは予言の神だと言っているが、それはゼウスが女神テミスから取りあげて、自分の息子に与えたものだ。ゼウスはとにかく、ティターン神族から力を奪い取りたがっているんだ。ゼウスの望みは、私にとっては都合が良かった。ゼウスは渋りもせず、おまえの永遠の若さと命を保証してくれた」

永遠の若さと命──それがどういうものなのかを、ヘリオスの体温の中で シュンはぼんやりと考えてみたのである。
自分は これまでにただの一度でも、そんなものをヘリオスに望んだことがあっただろうか──と。
シュンが押し黙ってしまったからだろう。
ヘリオスは初めて、その表情を曇らせた。
「シュン。おまえはまさか、私が太陽神だから、私の愛を受け入れてくれたのではないだろう?」
ヘリオスの心配は、シュンのそれとは別の次元にあるものだった。
ヘリオスのその言葉は、シュンの心を傷付けた。
そして、シュンは、その心の痛みを表に出してしまったらしい。
シュンを貶めるようなことを口にした自分に気付き、ヘリオスは、詫びるように再びシュンに口付けてきた。

「すまない。馬鹿なことを聞いてしまったな。だが、私は私のままだ。これまでと同じように、おまえを愛している私だ。そして、私は、もう決しておまえを失うことはなくなった。永遠に私のものだ。永遠を二人で生きていける」
ヘリオスは、シュンもまたそれを望んでいたのかということに、疑念を抱いてもいないらしかった。
永遠を、シュンもまた望んでいたものと決めつけているようだった。
「シュン……ゼウスからも、他の神々からも、時の流れからも──私が必ずおまえを守ってやる」
ヘリオスはそれだけ言うと、シュンには何も言わせず、そのまま力を込めてシュンを愛撫し始めた。
慣れてしまった愛の営みに、死と老いから解放され変わってしまったはずのシュンの身体が、昨夜までと同じように たぎり始める。

シュンは意識せずに身体をのけぞらせ、目を閉じた。
その途端に、涙が眼尻を伝い落ちる。
大神ゼウスをすら見下している感のあった誇り高い太陽神ヘリオスが、ゼウスに勝るとも劣らない強大な力を放棄する。
それも、一人の小さな人間のために。
それがどれほど稀有なことなのか、どれほど重大なことなのかは、シュンにもわかっていた。
ヘリオスの尋常でない愛の深さ、恋の激しさ、そしてその恋が真実のものであるからこそのヘリオスの決断なのだということがわからないシュンでもなかった。
しかし──。

(ヘリオスは──いつかは歳老いて死んでいく人間の僕を愛してくれたんじゃなかったの……)
身体は熱くヘリオスと溶けあっている。
だがシュンは、ヘリオスと出会ってから初めて今、彼と 心と身体が離れる時を感じていた。


ヘリオスがシュンのために太陽神としての神格をアポロンに譲ったように、セレネもまた、ラトモスに住む一人の人間の若者のために、月神としての神格をアポロンの妹アルテミスに譲ったことを、後になってシュンは知った。
そして、神格というものの意味と価値も。
太陽を司る神、月を司る神、あるいは愛を、あるいは知恵を──その肩書き自体には何の意味も価値もないが、その肩書きによって、人間は神を怖れ、崇め、敬う。
神を畏怖する人間の心、その数と力──それによって、神の真実の力が決まるのだということを、人間でないものになって初めて、シュンは知った。
そして、人間でないものになって初めて、シュンは、神と人間が違うものとして 同じ世界に在ることの意味を考えるようになったのである。
住む者が変わったわけでもないのに、少しずつ華やぎの消えていくヘリオポリスの中庭で、薄紫の寂しげなヘリオトロープの花びらを見詰めながら。






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