「エンデュに会いたくはないこと?」
陽が昇り沈む一日を10回ほど繰り返した後、シュンの許にセレネの訪れがあった。
月神でなくなった月神は、それでも その薄暗い部屋で ほのかに銀色の光をまとっている。
寝台に俯せて、半ば泣き半ば眠っていたシュンは、慌てて寝台の上に身体を起こした。
少し、目眩いがした。
「エンデュも、ずっとそんなふうなの。ふさぎこんで不機嫌で──元々そう明るい子ではなかったけど、病を得ることもできない身体が、かえって痛ましいほど……。ねえ、シュン。エンデュに会ってやってちょうだい。今のままでは、あなたもエンデュもお兄様も、つらいだけだと思うのよ」

長い寛衣の裾をさらさらと鳴らし、セレネは、シュンの座り込んでいる寝台に腰をおろした。
白い両の手でシュンの頬を包み、シュンの額に唇を寄せる。
「あなたがこんなふうに泣きはらした目をしているのも、あなたの頬がこんなに冷たいのも、少しはエンデュを愛してくれているからよね? あの子を悲しませたことを、つらく思ってくれているのよね? お願いよ、シュン、あの子に会ってやって。そうでないと、あの子は今にお兄様を憎むようになってしまう。お兄様を、あなたを“永遠”に縛りつけている残酷で傲慢な神だと思うようになってしまう。私は、あの子のためにならどんなことでもするけど、でも、私はお兄様を愛してもいるわ。二人が憎み合い傷付け合うなんて、耐えられそうにないの」
「セレネ様……」

今になってシュンは、セレネがいつも美しく強く優しかった訳がわかったような気がしたのである。
それは、セレネが母親だったからなのだ──と。
エンデュミオンを思い、気遣い、愛しむセレネの その心こそ永遠のものなのだろうと、シュンは思った。
そしてシュンは、際限無く優しく哀しげなセレネの眼差しに、恥じ入ってしまったのである。
「ご……ごめんなさい、セレネ様。僕、エンデュに会えないのがつらくて、エンデュに会いたくて、でもヘリオスを裏切りたくなくて、僕、そんなふうに、自分のことしか考えてなかった……。エンデュが僕のせいで傷付いたかもしれないなんて考えもしないで、自分が つらいことだけ考えてて──僕、セレネ様のように優しくないんです……」
「シュン……」

セレネがシュンをふわりと抱きしめる。
幼い頃に失った母親の胸の温かさを思い出し、シュンの瞳にはまた涙が盛りあがってきた。
「そんなことないわ。シュンは優しい子よ。お兄様を傷付けたくないから、シュンは苦しんでいるんでしょ? お兄様のために、永遠の命なんかいらないと、今まで言ってしまえずにいたんでしょ? お兄様のために、エンデュに会うまいとしたのでしょ?」
「だって、僕……。きっとヘリオスより僕を愛してくれる人なんていないもの……」
永遠をつらいと思い、変わらぬヘリオスの心が恐いと言いながら、ヘリオスに愛されていない自分の姿を思い描くことほど恐ろしいことはない。
それは、シュンが永遠の中に一人ぼっちでとり残されてしまうことと同義だった。
ヘリオスの愛は、シュンが信じていられる唯一の“永遠”だったから。

「セレネ様はなぜ……エンデュのお父さんに永遠の命を望まなかったんですか? 永遠を与えても、やっぱり人間の心は変わってしまうと思ったから?」
そう尋ねずにはいられなくて、シュンはセレネに尋ねた。
セレネが、その口許に やわらかな笑みを刻む。
「私は、あの人の心の永遠も、心変わりの可能性も考えなかったわ。あの人、私に言ったの。『私はいつか醜く歳老いて死んでいく。そんな私に耐えられなくなるまででいいから、私の愛を受け入れてくれ』って。あの人は、まだ若くて美しくて たくましかったのに、そんなふうに言ってしまえるあの人の潔さに、私は惹かれたの。だから、あの人のあの黄金の髪が白く変わってしまった時に、私はあの人を抱きしめて私の心を見せてあげようと思ったのよ。だのに、あの人は若く美しいまま、突然命の火を消されてしまった。私は、私の心をあの人に示し損ねてしまったの……」

「セレネ様……」
寂しそうに告げるセレネの横顔は、シュンの目にひどく美しく映った。
そんなふうに、もしヘリオスが自分を愛してくれていたなら、自分はどれほど豊かな心で彼に愛を返すことができていただろう。
エンデュミオンが目の前に現れても、その心は揺れもしなかったに違いない。
(ヘリオスは僕の身体に永遠の若さと命をくれたけど、あの時いっそ、永遠の不変も僕の心に与えてくれればよかったんだ。そうしたら、永遠は 時間の停止と同じことになって、僕は永遠の重さに苦しみもしなかったろうに……)
シュンは、それでも自分のことしか考えられない自分に腹が立ってきた。
セレネにはそんなふうに愛されるだけの価値があったから、そんなふうに愛してもらえたのだろうに──と。

「そ……う、エンデュのことね。あの子の父がゼウスに殺されたのは、あの子が12歳になった頃だったわ。ゼウスは処女神である私を汚した罰として、あの人を殺したのだと言ったけれど、それなら、あの人が初めて私を抱いた夜にでも罰は下せたはず。ゼウスは、本当は、神にすがらず、自分の力で自分の道を切り開いていこうとするあの人を──神を頼ろうとしない人間の力を怖れたのよ。そんな人間の台頭は、神々の滅びに繋がることだと、ゼウスは知っていたから……。エンデュは父を尊敬していたし、私があんまり嘆くものだから、ひどくゼウスを憎んだわ。あれは、普通の人間の一生分の時間を費やしても消えないほどの憎しみだった。私、不安に思ったの。このままでは、この子は憎しみだけに囚われて一生を終えてしまう──って。私は、そんな人生をあの子に歩んでほしくなかった。憎しみの果てにもっと大切なものがあることを あの子に気付いてほしかった。だから、私は あの子に永遠の時間を与えたの。憎しみが時間に風化されるのを待とうと思ったの」
シュンを抱きしめるセレネの腕に力がこもる。
セレネは苦しげに、呻くように、言葉を続けた。

「でも、もしかしたらそれは、愛する者をもう失いたくないという、私の我儘だったのかもしれない……。永遠という時間が、あの子をあんなに苦しめるなんて、私は思ってもいなかった。人間であるあの子の父に、私がなぜ惹かれたのかを考えれば、永遠の時間などというものが、あの子に幸福をもたらすことがないことぐらい、すぐわかったはずなのに……」
「セレネ様……」
涙を流せぬ女神の瞳の奥に、涙より哀しい心を感じとって、シュンは その胸に刃物で切り裂かれるような痛みを覚えた。
シュンが、今度はセレネの肩を抱きしめる。

「セレネ様。でも、きっとエンデュは、永遠の時間の中で 苦しみばかりを得たはずはありません。エンデュのお父さんにセレネ様が示してやれなかったセレネ様の思いを、エンデュはお父さんの代わりに見たでしょう? 今、もし、その命を終わらせることができるとしても、エンデュが喜んで死を受け入れるはずはないです。だって、それはセレネ様と二度と会えなくなることなんだもの。死はやっぱり、つらくて悲しい別れだもの」
「……」
シュンの言葉で、セレネは自分を抑えることを思い出したようだった。
頬に光るものを散らしているシュンを見詰め、女神は微かに微笑んだ。
「泣き虫なのね、シュン。可愛いこと」
からかうようにあでやかなセレネの言葉に戸惑って、シュンは 二度三度 瞬きをした。
ごしごしと手の甲で涙を拭き俯いたシュンを、包み込むようにセレネが見やる。

「エンデュは、あなたに会って変わったの。生きていることが──毎日が楽しそうで、輝いていて──私がどんなに勧めても、あの子はあなたを苦しめたくないと言っているし、結局はあなたが決めることだとも言っているわ。でも、私はあの子の母親だから――それもかなり我儘な母親だから、あの子が幸せになってくれるなら、あなたを苦しませることも、お兄様を悲しませることも、多分できてしまうの。だから、言うわ」
セレネは一旦言葉を区切り、そして、穏やかに、だが 強い声で、先を続けた。
「エンデュはあなたを求めているの。もし、その願いが叶わなかったら、これからのあの子の永遠の時がどんなものになるか──シュン、あなたにならわかるわね?」
「あ……」

わからないはずがない。
一度見い出した希望、一度知ってしまった喜びを、ふいに断ち切らねばならなくなってしまった苦しみに、シュン自身が、たった今 責め苛まれていたのだから。
ただシュンは、この苦しさが永遠に癒されないかもしれない──という可能性に、考えを及ばせてはいなかった。
今現在この一瞬の つらさがあまりに大きくて、シュンはそんなことまで考える余裕を持てていなかったのである。

だが、その可能性は皆無ではない。
むしろ、その可能性を皆無と思う方がどうかしている。
エンデュミオンは、人間であるシュンに課せられた“永遠”の重さを理解してくれる唯一人の人間――シュンと同じ永遠の時間を持った、唯一人の人間なのである。
シュンは背筋が凍りつくような感覚に襲われ、実際に身体を震わせた。
こんな絶望にも似た不安の中に、エンデュミオンもいるのだろうか──?
そう考え、シュンが ほとんど絶望といっていい恐怖に囚われかけた時、
「セレネ、もう十分だろう。まだ言い残したことがあるか?」
恐怖とは別の悲しみをシュンにもたらす声が、シュンの上に降ってきたのである。

扉の前に、ヘリオスの姿があった。
激した様子もなく、普段の通りの。
セレネが兄を振り返り、やがて、腰をおろしていたシュンの寝台から立ちあがる。
「いいえ、お兄様。もう十分ですわ。ひどい妹でごめんなさい」
扉の前に立つヘリオスの脇を擦り抜け、セレネが部屋を出ていく。
彼女と共に、ヘリオスもまたその場を立ち去ろうとした。
どうやら彼は、セレネとシュンの会話を立ち聞いていたものらしい。

シュンは、反射的にヘリオスを呼び止めたのである。
「ヘリオス!」
振り向いたヘリオスの、あまりに静かな眼差しに気圧けおされながら、シュンはすがるように彼に懇願した――懇願せずにいることが、シュンにはできなかった。
「ヘリオス、何か言って!」
シュンの訴えを正面から受けとめたヘリオスは しばらく無言で、寝台の上のシュンを見おろしていた。
ややあってから、ゆっくりと口を開く。

「私の言葉など聞かぬ方がいい。おまえが つらくなるようなことしか、私には言えないだろうから」
「それでもいい!」
太陽神の神格を捨ててまで永遠を与えた恋人が、他の男のことで思い悩んでいるのである。
ヘリオスは自分を責めてくれるだろうと、シュンは思った。
ヘリオスが少しでも恨みがましいことを言ってくれたなら、それで自分はエンデュミオンを求める自分自身を戒めることもできるだろう――と。

「それでもいいから……ヘリオス、何か言って」
救いを求めて、少しでも楽になりたくて、シュンは再度ヘリオスに懇願した。
だが、シュンの懇願に応じてヘリオスが告げた言葉は、シュンの想像以上にシュンをつらくするものだったのである。
「エンデュミオンに会って、おまえは変わった。いや、おまえは以前のおまえに――永遠の命を得る前のおまえに戻ったんだ。生き生きと輝く瞳、作りものでない笑顔と、伸びやかに動く手足――。私に何が言える。永遠の若さと命を与えることが、おまえを苦しめるかもしれないなどということを考えもしないで、おまえを“永遠”に縛りつけた私に。私が、それでもおまえを愛しているのだと告げたところで、おまえの涙が乾くとは思えない」

「ヘリオス……」
ヘリオスは、シュンの望むような言葉を口にしてはくれないようだった。
それ以上は何も言わず、重々しい音をたてて、彼は扉を閉じた。
扉は、いつでもシュン自身の手で開けることができる。
その勇気だけが、シュンの胸に湧き起こってこなかった。






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