「いってしまったわ……」
「ああ」
二人の消えてしまった空間を見詰め、ヘリオスとセレネは互いに一人言のように咳いた。
悲しげにではなく、絶望した様子もなく。
セレネが、微かな笑い声を洩らす。
「でも、シュンったら本当に――本当に神としてのお兄様を愛したのじゃなかったのね」
「ん?」

ヘリオスが顔をあげ妹神の方を見やると、セレネは愉快そうに兄に告げた。
「一度沈んでも再び地上を照らすのが太陽だということを考えたら、太陽神が――お兄様が転生を司る神だということに気付いてもよさそうなものなのに、シュンったら」
「全くだ。しかし、私は――」
「それが嬉しかったのでしょ」
妹の言葉に、ヘリオスは肩をすくめて笑い、肯定の意を示した。
ゼウスが、そんな二人に視線を投げ、彼等に尋ねてくる。

「で? 私はどんなふうにおまえたちに優しく・・・してやればいいんだ? あの子が言ったように、太陽神・月神の神格をおまえたちに返し、あの子たちに関する記憶を奪ってやればいいのか?」
シュンに毒気を抜かれてしまったのか、ゼウスの態度は、いつになくヘリオスたちに親しげだった。
「まさか。そんなことをしたら、本当に我々は貴様を軽蔑するぞ」
そして、ヘリオスの口調もまた。
「私の望みは、シュンを追うことだ。私は、私に与えられた不死の神としての力のすべてを放棄する」
「私も、もちろん」

当然のことのように、ヘリオスとセレネはゼウスに告げた。
ゼウスも、彼等がそう言うだろうことは察していたのだろう。
だが、理解はできなかった。
「馬鹿なことを。神が神としての力を自ら放棄し、人間のような死を望むだと?」
「死を望むわけではない。我々はただ、愛する者の前に、対等の立場で存在することを望んでいるだけだ。私が――私がシュンに惹かれたのは、シュンが人間だったからだ。シュンが、人間としての力と生気と輝きに満ちていたからだ。私が シュンと同じものになりたいと望むのは、さほど不自然なことではないだろう」
「あなた方オリュンポス神族も、結局は私たちと同じ道を選ぶことになると思いますよ、ゼウス。神々の時代は、もう終わりかけている」

兄妹神の言葉が確かな未来を予言しているだろうことがわかってしまうのが、ゼウスの不幸だった。
そして、それでも神々の父たる立場にあるために、その確かな未来を認めてしまえないことが。
「かもしれぬ。しかし、なぜ神々が、持てる力を自ら捨て去る必要があるのだ」
「我々神々を作ったのが、人間の心の力だからですわ、お父様」

ふいにその場に現われたのは、知恵と戦いの女神パラス・アテナだった。
オリュンポスの神々の中で最も傑出した知恵の女神は、涼やかな眼差しを、ティターンの太陽神と月神に投げかけた。
彼女もまた、シュンとエンデュミオンの最後の一瞬を、複雑に爽やかな思いで見ていたのだろう。
「神々の力は、人間の思いの結晶のようなものなのですもの。その力の源に還りたいと思うのは、必然でしょう。――ヘリオス」
アテナがヘリオスに向き直る。
彼女は漆黒の髪になったヘリオスに会うのは、これが初めてだった。
同情も侮蔑もなく、むしろ、恋のためにそこまでできたヘリオスを羨むように、そして少しばかり痛ましげに、彼女は言った。

「シュン――ムネモシュネーとエンデュミオンが、まるでそれが運命だったかのように恋に落ちたのは、二人が人間同士だったから、同じ苦しみを苦しんでいたから、互いがとても美しかったから――そして彼等が、彼等として生まれる前に、結ばれずに死んでいった恋人同士だったからよ。ずっと以前にアポロンが恋したダフネという少女を憶えていて?」
「――憶えている。さっき気付いた。すっかり忘れていたがな」
「シュンはダフネの再生でした。結ばれずに死んでいった恋人に会って、惹かれ合わないはずがないわ」
「エンデュミオンがそうだったというわけか……。何のことはない。私が転生させてやったのだ。あの少女と、あの少女の恋人を」

アテナは知恵の女神である。
知恵とは、過去の経験によって培われるもの。
そして、その知恵は未来を紡ぎ出すものである。
アポロンの持つ予言の力などとは異質の、むしろ人間の持つ力に近い。
そのためか、アテナはいつも人間に好意的だった。
「あれほど神を憎んで死んでいったダフネが、ムネモシュネーとして再生した時、神であるあなたを愛することもできた――それが、人間の力、人間の強さなのだわ」
「同じ力を手に入れる。そして、今度こそ、愛し方を間違わずにシュンを愛したい」

ヘリオスやセレネは、シュンやエンデュミオンとは異なり、永遠の時間や神としての力をゼウスに与えられたわけではない。
太陽神としての地位をアポロンに譲って久しく、太陽神ヘリオスの存在を望む人間の思いも弱まっている今は、自分が 自分の意思だけで我が身を処することができることを、ヘリオスは知っていた。
ゼウスの力より、太陽信仰に傾いている人間たちの思いより、今は、ヘリオスのシュンを思う心の方が強かった。
彼を捉えているのは 今はただ――シュンヘの思いだけだったのだ。

「ま、お兄様。あの二人の邪魔をするおつもり?」
「無論だ。あんな若造に、私のシュンを渡してなるものか」
そして、月神セレネもまた、今は兄と同じ身の上だった。
彼女は、神としての自分の存在になど、何の未練もないかのように軽やかな笑い声を洩らした。
「では、私はまた、お兄様たちの三角関係を見物できるというわけね。その時が楽しみだこと」
「何が楽しみだ。どうせ、おまえはまたエンデュミオンの味方をするんだろう」
「当然ですわ」

ヘリオスは、妹と自分自身とを転生の輪の中に投げ込むことに、神としての最後の力を使った。
二人の姿が、徐々に光の中に溶けこんでいく。
「私は、あの子の母親ですもの」
「再び母親として、あれの前に立てるとは限らん」
「それも楽しみの一つですわね。今度はシュンの恋敵になれるかもしれないわ」
「とんでもないことを考える……。まったく、我が妹ながら、おまえは――」

かつての太陽と月の兄妹神は言葉を戯れさせながら、心を風に乗せるようにして、やがて、その姿をオリュンポス神殿の内から消し去った。
実体を無に帰するその時にも、ヘリオスとセレネの心は、大気に溶け込んだシュンやエンデュミオン同様、輝きに満ちていて、それがゼウスを困惑させた。

「――私たちもいずれ、彼等の後を追うことになると思いますわ、お父様。いつか……そう遠くない未来に、このオリュンポス神殿に風以外の何物も存在しなくなる時がくるでしょう」
シュンとエンデュミオン、ヘリオスとセレネの消えたオリュンポス神殿はひどく寒々しく、アテナの言うことは、明日にも実現する未来のように思われた。
ゼウスは――その未来を知っていながら認めることのできない神々の父は、今 既に風しか存在していないように感じられる神々の館を、そこにある風を、ただ無言で見詰めていた。






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