そんなふうに平和にじゃれあっている二人を、一輝は無言で その視界に映していた。 (……確かに、前世のことなど憶えていない方が、人間は幸福になれるのかもしれないな) 氷河はこれまでの生に かなり後悔や未練があったらしく、ぼんやりと自身の前世を憶えているような節があったが、瞬は見事なまでに すべてを忘れて現在の生を生きている。 ふと、一輝は、誰かの視線を感じて顔をあげた。 沙織が城戸邸の南の棟の2階のバルコニーから、テラスでじゃれついている瞬と氷河を見おろして、微笑んでいる。 彼女は、一輝が自分を見ているのに気付くと、何やら意味深な視線を彼に投げてきた。 一輝がすべてを明瞭に憶えているように、おそらく そのことについて二人は話し合ったことはなかったし、自分がすべてを記憶していることを、一輝は誰にも気付かれぬようにしていたが。 一輝は空を仰ぎ、吐息した。 瞬と氷河の のどかな言い争いが続いている。 シュンを愛した記憶が残っているだけに、一輝は瞬が愛しかったし、抱きしめたいという気持ちも強かった。 だが、シュンを苦しめた記憶が残っているために、彼はそうすることができずにいた。 望めば何もかもを忘れることは可能なのだろうと思う。 瞬がすべてを忘れてしまっているように、氷河が微かにとはいえ 記憶を残しているように、すべてを決めるのは、人の心なのだ。 だが、一輝はどうしても、すべてを忘れたいと望むことができなかったのである。 幸福だった時、そうでなかった時──どんな時も、それは、一輝にとって、 すべてを忘れてしまえる“人間”というものは恐ろしく潔い生き物だと、一輝は思っていた。 人間は、幸福になる術を心得た、実にたくましい生き物なのだ。 実際、神々が世界を支配する時は終わり、人間の時代が来た。 神という言葉、神という概念を持ちながら、神の力に頼らずに生きていこうとする人間が、今 この世界には溢れている。 シュンが“永遠”を捨てても取り戻したいと望んだ、限りある命を持つ存在。有限を積み重ね、永遠を形作っていくもの──。 そんな人間たちの世界の中で、瞬は今、光り輝くように自分の生を生きているのだ。 「ね、兄さん。兄さんは、自分の価値感の基準をどこに置いてます?」 氷河の食いさがりに困り果てた瞬が、兄に救いの手を求めてくる。 瞬の理想の兄を演じることは、一輝にはそう難しいことではなかった。 「おまえに関することでなら、おまえ自身の意思──とでも答えておくか。氷河への対抗上」 兄のその答えを聞いた瞬が、得意満面で氷河を振り返る。 「どうです、氷河。この百点満点の答え! 氷河もこう言ってくれれば、僕だって文句のつけようがなかったのに」 氷河は、瞬の得意そうな顔を見て、心底から嫌そうに顔を歪めた。 「おまえ、そのブラコン、早く治した方がいいぞ。一輝なんかより、俺の方がいい男だ」 「ふーんだ! 氷河が兄さんを超えてくれたら考えてみますよ!」 「悪いが、俺はおまえの気に入る男になるつもりはない。俺は、おまえを俺に惚れさせたいだけなんでな」 「氷河の言ってることは滅茶苦茶です!」 兄のいるところでそんなことを口にしてほしくなかった瞬は、立腹した振りをして、横を向いてしまった。 氷河が、その耳許に、低く囁く。 「なあ、瞬。いいかげん素直になれ。俺も、夢の中のおまえを抱くのには、そろそろ飽きた」 囁かれた瞬が、途端に大赤面する。 テーブルの上にあった雑誌を手に取ると、瞬はそれを氷河の頭に音を立てて叩きつけた。 「ひ……氷河なんか……氷河なんか好きになってたまるもんですかっ!」 「いて……おい、瞬!」 氷河が呼びとめるのも聞こえないかのように、瞬が怒り心頭に発した様子で掛けていた椅子から立ちあがる。 一瞬考え込んでから、一輝に貰ったヘリオトロープと氷河に貰ったチューベローズの花束を持って、瞬はさっさとテラスから邸内に戻っていってしまった。 それでもチューベローズの花を打ち捨てていかないところが、瞬の瞬たる所以である。 人を憎んで花を憎まず。 そして結局、人を憎みきることもできないのが瞬なのだ。 微かに苦笑を洩らして、氷河は瞬を追いかけた。 なんのことはない、瞬を一輝のいない場所に移動させるために、氷河はわざと瞬を怒らせるようなことを口にしたのである。 一輝のいる場所といない場所とでは、瞬の防御壁の厚さは百万倍も違う。 瞬を口説くなら、一輝のいない場所に限るのだ。 「待ってくれ、瞬」 「側に来ないでください! 氷河なんか、もう知りません!」 「悪かった! 謝る! な、瞬。今度から、おまえを口説く時は『清く正しく美しく』の路線を守るようにするから、機嫌を直してくれ」 「信用できませんっ! よりにもよって、兄さんのいるところで、あんなこと言うなんて!」 「一輝に聞こえてるわけないだろーが! おい、瞬! 瞬ちゃん!」 瞬と、妙に楽しそうに情けない男を演じている氷河の後ろ姿を見送ってから、一輝は、再び花壇の隅のヘリオトロープの花に目を向けた。 『愛よ、永遠なれ』 永遠を望むほどの愛を、これから瞬は いったい誰と育んでいくのか。 神という存在も人の力で変えられない運命もない人間の時代は、瞬がその答えを出すのに何の障害もない時代である。 唯一つ“死”という宿命を別にして。 何物にも縛られない自由な意思と素直な心で、瞬は答えを出すだろう。 Fin.
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