ヴェネツィア共和国の元首補佐官ガブリエレ・オルセオロの邸は、コンスタンティノープルのヴェネツィア居留区の中でもひときわ広い敷地を占めてはいたが、さほど壮麗な装飾もない、どちらかといえば質素な感すらある建物だった。
ヴェネツィア商人は、豊かになればなるほど、邸も身にまとうものも質素になる。
ヴェネツィアという国は、共和制を尊ぶあまり、一つの家に富や権力が集中するのを恐れる国柄なのだ。
そんな国の中で 自らの富を誇るのは、愚者のすること。
オルセオロ邸の静かな佇まいは、すなわち、オルセオロ家の富と隠然たる政治力を意味していた。

「皇帝陛下は覚悟を決められたようだな」
オルセオロ元首補佐官には、アルヴィーゼも皇宮で幾度か会ったことがあった。
ヴェネツィア商人らしい合理性と深い思慮を持った40そこそこの紳士である。
商人にして政治家でもあるこの元首補佐官に アルヴィーゼが好感と尊敬を抱いているように、元首補佐官の方も、なぜかアルヴィーゼには以前から目をかけてくれていた。
『軍隊などやめて、ヴェネツィアに来い。ヴェネツィアには富と自由がある。美しい女も多いぞ。乞食になるも元老院議員になるも思いのままだ』が、彼の誘い文句だった。
その元首補佐官が、重苦しい沈黙を破って告げた言葉に、アルヴィーゼは静かに頷いた。
「陛下は、オルセオロ殿の許にある一対の宝石を帝国の外に運び出せと申されました。どこにとも誰にとも申されず、とにかくマホメット2世の手にだけは渡すな、と。その宝石をお渡し願いたい」
「……すぐ息子が持ってくる」

オルセオロ補佐官には息子が二人いた。
長男の名はオリヴェロット・オルセオロ。
アルヴィーゼと同年代で、彼にはアルヴィーゼも幾度か会ったことがある。
その若さにも関わらず軍事の天才と言われ、ヴェネツィア海軍の提督になるのも時間の問題と、もっぱらの評判だった。
下の息子の方に関しては『オルセオロ家の真珠』と呼ばれ、驚くほど美しい少年だという噂のみが広く流布していたが、その噂が真実なのかどうか怪しいものだという噂もまた、コンスタンティノープルには蔓延していた。
どういう考えがあってのことなのか、オルセオロ補佐官は、決して人目のあるところに下の息子を出すことをしなかったのである。
オルセオロ補佐官に妻はない。
下の息子を産んですぐ病で亡くなり、以来 元首補佐官は独り身を通していた。
オルセオロ補佐官は仕事柄 数年ごとにヴェネツィア本国とコンスタンティノープルを行き来していたが、たまたまコンスタンティノープルに在住していた時に、今回のトルコ軍の急襲に遭遇してしまったのである。

「父上、連れてまいりました」
見知ったオルセオロ家の長男の声が、邸の外容とは裏腹に稀少華麗な調度が置かれている室内に響く。
その声に振り向いたアルヴィーゼは、オルセオロの長男の横に、到底人の子とは思えないほど美しい一人の少年の姿を見い出した。

歳は、14、5歳ほどだろうか。
雪花石膏アラバスターのような肌はロシアの大地を覆う雪より白く、海緑色の瞳は晴れ渡ったアドリア海の水面よりも輝いている。
肩にかかる やわらかい髪、繊細さを極めた美しい指。
襟や袖にヴェネツィアン・レースをあしらった膝丈ほどのビザンティン風の寛衣を緑のベルトで抑え、その裾からのびているすらりとした脚は、アルヴィーゼの考え得る限りを越えて完壁な線を描いていた。

どれほど有能な彫刻家も、この美しさを大理石に刻むことはできない。
いかなる天才画家も、この肌の色を画布に写しとることはできない。
そう断言することに、いささかの躊躇も覚えないほど、『オルセオロ家の真珠』は輝いていた。
人前に出たことがないせいなのか、それともアルヴィーゼの険しい眼を恐れてのことなのか、オルセオロ家の真珠は、長身の兄の側にぴたりと寄り沿って、少しばかり怯えた様子さえ見え隠れさせている。
黒づくめの服を身にまとった兄と白い真珠とは、実に対照的だった。
もっとも、オルセオロ家の真珠に目を釘づけにされ、しばらくは周囲を見まわすこともできなかったアルヴィーゼが、その黒真珠と雪色の真珠の対照性に気付いたのは、かなりの時間が経ってからのことだったのだが。

「セラフィーノ。恐がらずにこちらに来なさい。彼はおまえに危害を加えたりするような人間ではない。皇帝陛下の保証付きだ」
まるで幼い子供に言いきかせるような元首補佐官の口調に、もしかしたらこの美しい子供は知的障害を抱えているのかと、アルヴィーゼは疑うことになったのである。
「オリヴェロットもいる。何があっても、兄がおまえを守ってくれる」
重ねて元首補佐官が言うと、雪色の真珠は、こくりと頷いた。
そして、薔薇色の唇を開いた。
「すみません。初対面の方に失礼な態度をとってしまいました。僕、人見知りが激しいんです。お気を悪くなさらないでください。あなたがギリシャ彫刻のように美しいので驚いてしまったんです」
見事なギリシャ語よりも、あまりにその姿に合った声の響きに、アルヴィーゼは息を呑んだのである。
呆然としている自分に気付き、慌てて自身に活を入れたアルヴィーゼは、自戒のために舌を噛んだ。

「あまり……嬉しい言葉ではないな。君のような子に言われても」
少々掠れてはいたが、声はどうやら ちゃんと発せられていたらしい。
アルヴィーゼの言葉を聞いて、白い真珠はなぜか突然、雲間から射す春の陽光のように輝いた。
「多分、あなたのような方となら大丈夫でしょうね。父上や皇帝陛下がお目をかけるくらいなのだし、あなたなら、遂行すべき目的の前に、弱い心など抱いたりはなさらないのでしょう」
「……何のことだ」

意識して素っ気なく反間しながら、アルヴィーゼは自分の声が上擦っていることに誰も気付かずにいてくれと願っていた。
慧眼で知られるオルセオロ家の当主の前で、それはあまり希望の持てない願いだとわかってはいたのだが。
「これから僕と一緒にヴェネツィアに戦らっしゃる……のじゃないんですか? 父からそう聞いていましたけど……」
「なに?」

アルヴィーゼが怪訝そうな顔を元首補佐官の方に向けると、補佐官はゆっくりと彼に頷き返してきた。
「息子の言う通りだ。君はこれから私の下の息子と共にヴェネツィアに向かう。どんな経路をとるかは、君の裁量に任せよう。私は私の船団を率いて、オリヴェロットは軍船を率いて、三者別々にヴェネツィアに向かうのだ」
「何のことです。私は、陛下から、元首補佐官殿の手許にある宝石をスルタンの手の届かぬところに運べと命じられて、ここに参ったのですが」
「ああ、それはセラフィーノが持っている」

父に促され、真珠がアルヴィーゼの側に歩み寄る。
セラフィーノは、黒い絹の袋から羊皮に包まれた二つの石を取り出し、手のひらに載せてアルヴィーゼの前に差し出した。
ブルー系のダイヤとピンク系のダイヤ。
石としてはありふれたものだが、その大きさは石榴の実ほどもあり、研磨も実に見事なものだった。
しかし、アルヴィーゼの目には、内から光を発しているように見える美しい宝石よりも、その宝石が載せられているセラフィーノの白い手の方が、よほど価値のある宝石に思えたのである。

「綺麗な石でしょう? オリエントの支配者の証なんだそうです。東ローマ帝国時代から伝わるもので、この石のついた宝冠を戴く者だけが、真にオリエントを支配できると言われているんですって。マホメット2世は血眼になって これを探すだろうと、陛下もおっしゃっていらしたそうです」
「なぜ、君と」
ただの宝石を運ぶのではないのだろうとは思っていたが、今のアルヴィーゼには、その宝玉のいわれよりも そのことの方が気になった。
なぜ、この雪色の真珠が自分と危険な旅に出なければならないのだろう。
それほど重要な宝石なら、スルタンの追手もかかるに違いないというのに──と。
アルヴィーゼの疑念に答えたのは、元首補佐官だった。
「これは以前から当家と皇帝陛下との間で決められていた手筈なのだ。陛下の委任状もある。私と私の二人の息子はそれぞれ三手に別れてコンスタンティノープルを脱出する。私はヴェネツィアの元首補佐官としての私自身とヴェネツィアの名誉、オリヴェロットはオルセオロ家の富、セラフィーノは陛下からの預かり物──それぞれがそれぞれの荷を持ち、それぞれがそれぞれの囮となる。私とオリヴェロットは別々に船団を率いていくから、目立ちもするし、危険も大きいだろう。君はセラフィーノを伴って、目立たないように発ってほしい。そして、できるなら、三者無事にヴェネツィアで会いまみえよう」

「……」
アルヴィーゼとしては、それが皇帝の遺志なのであれば従うことにやぶさかではなかったが、皇帝の遺志がオルセオロ家──ひいてはヴェネツィア共和国に利用されているような気がしないでもなかったのである。
まぎれもなく皇帝自筆の委任状を見せられるまで、アルヴィーゼは自分の内の疑いを消し去ることができなかった。






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