「氷河……! いい加減に起きてください! わかってるんですか !? 敵がね! 攻めてきてるんです! 兄さんも紫龍も星矢も怒ってますよっ! こんな寝ぼすけの聖闘士なんて! アテナの立場ってものがないじゃないですか!」
「セラフィ……瞬……」、
朝の眩しい光の中に、眉を吊り上げて怒っている熾天使セラフィムの姿をぼんやりと認め、氷河は いやいやながら意識を覚醒させた。
氷河が陽射しを遮るために目の上に運んだ右腕を、瞬がぴしゃりと音を立ててぶつ。

「キグナス氷河! 起きなさいっ! 敵ですっ!」
容赦も手加減もあったものではない。
しかし、氷河の寝穢いぎたなさは、その程度の攻撃にはびくともしなかった。
「……ああ、すまん。ちょっと昔の夢を見ていたんだ」
「昔の夢……? 子供の頃の夢……ですか?」

敵の襲撃を受けている今この時に、緊迫感のかけらもなく尋ね返してくる瞬も、どちらかといえば非常識である。
が、瞬の気が立っているのは、攻めてきた敵の力が強大だからではなく、敵が攻めてきたというのに呑気に朝寝坊を決めこんでいる氷河のせいだったのだ。
それがわかっているから、氷河は 瞬の非常識を責めることはできなかった。

「……いや。もっと昔の、な」
「もっと昔って、どういう意味です」
それでも のろのろとベッドに上体を起こした氷河が、瞬を見て、溜め息を洩らす。
「ほんとにおまえは忘れっぽいな。一輝ですら多少の記憶は残っているんだぞ。少しくらい憶えていてくれても、バチは当たらんだろうに」
あれから後、トルコの脅威から、ローマの干渉から、フィレンツェの内乱の余波から、ジェノヴァとの確執から、ヴェネツィアを守るために、自分たちがどれほど苦心し、また暗躍したか、まるで憶えていないらしい瞬に、氷河は呆れたような顔になった。

「なに、訳のわからないことをぶつぶつ言っているんです。敵が来てるんですってばっ!」
あの美しく神秘的だった雪色の真珠が、この口のきき方である。
身も世もあらぬほど恋焦がれ、決して口にできない思いに苦しみぬいたアルヴィーゼ・ローヴェレとしての自分の人生は いったい何だったのかと、氷河は朝っぱらから ずっしり落ち込んでしまった。
アテナの聖闘士キグナス氷河としての人生も、瞬に恋をし、しかし、聖闘士としての義務感に燃えている瞬に思いを打ち明けられずにいるのは、同じではあったのだが。
間断無く続く闘いのために瞬がいつも傷だらけなせいと、気が強いくせに妙に泣き虫な瞬の涙にばかり皆が目を向け、そのために誰も瞬の瞳に注意を払わないせいで、瞬の美しさに気付く者が少ないということが、今の氷河のただ一つの救いだった。

(……俺は、アルヴィーゼ・ローヴェレとして以外にも、この世に生を受けたことがあったんだろうか……。そして、やはり瞬に恋をしていたんだろうか……)
ふと考え込んでしまった氷河の上に、瞬の怒声が降ってくる。
「氷河っ! なに ぼんやりしてるんです! 氷河にはアテナの聖闘士としての自覚があるんですか、いったい! 兄さんたちに怒られたって、もう庇ってあげませんよっ!」
言葉だけはきついが、それでも毎回律義に自分を庇ってくれる瞬を知っていた氷河は、ただ瞬のためだけに、とりあえず戦闘に参加することを決意した。
──のだが。

氷河が その決意を為した ちょうどその時に、窓の外から、戦闘終結を告げる星矢の声が響いてきてしまったのである。
「瞬、終わりーっ! もう全部片付けちまったぞーっ!」
「えーっ、僕、まだ戦ってもいないのにっ!」
バルコニーに出て、敵の転がっている城戸邸の庭を眺めつつ、瞬が星矢に訴える。
戦うどころか、瞬は、氷河を起こすのに手間取って まだ聖衣も身に着けていなかったのだ。
星矢は肩の埃を払いながら、また声を張りあげた。

「平気、平気。一輝も紫龍も、瞬が怠けてたなんて思ってないさ。けど、氷河には早く来いって。今日は思いきり説教してやるってよ!」
星矢が大声をあげているのは、無論、まだベッドの上でうだうだしている男に仲間たちの憤りを知らせるためである。
だが、星矢の言葉に慌てたのは、仲間たちの激怒の対象である氷河ではなく瞬の方だった。
身の程知らずにもアテナをつけ狙ってきた敵を相手にする時のように手加減をしてくれるはずがないのである。一輝や紫龍が、氷河を“説教”するのに。

「氷河……どうしよう……! 兄さんたち、ほんとに怒ってるみたい……」
慌てて振り返った瞬に、氷河は他人事のような顔をして、慌てず騒がず静かに告げた。
「二人して逃げるか。兄弟も仲間も故国も捨てて、聖闘士としての義務も何もないところに」
「馬鹿な冗談 言ってる場合じゃないでしょう! ちゃんと素直に自分の非を認めて、朝寝坊を治すように前向きに努力しますって言えば、きっと兄さんたちも許してくれますよ……!」
きっぱりと、だが 幾分心配そうに、瞬が言う。
瞬らしいといえば瞬らしすぎるその言葉に、氷河は軽く左右に首を振った。
「何も憶えていないくせに、何も変わってないんだな、おまえは」

アルヴィーゼ・ローヴェレが、生涯にただ一度、思いの丈を込めて、『故国も兄弟も何もかもを捨てて、二人でヴェネツィアから逃げよう』と言った時のセラフィーノもそうだった。
ヴェネツィアの繁栄のため、共和制の存続のため、国が何をしてくれるというわけでもないのに、逃げ出した方が余程平穏な生活ができることがわかっていながら、セラフィーノは決して己れに課せられた運命から逃げようとはしなかった。

「また、訳のわからないことを……。逃げたって駄目ですよ。一生逃げ続けていられるわけなんかないんだから。ちゃんと謝った方が絶対いいんです!」
全くもって正しい瞬の主張は、氷河の望む個人的かつ ささやかな幸福とは相容れないものだった。
が、そんな瞬を嫌えないどころか、そういう瞬だからこそ好きになってしまったのだというところが、氷河の救われないところだったのである。

「ねっ、氷河、そうしよ? 僕も一緒に謝ってあげるから」
こころもち首をかしげて瞬に微笑まれ、氷河は嘆息した。
可愛いものは可愛いし、綺麗なものは綺麗なのである。
その側にいられることに喜びを感じるから、氷河とて、この馬鹿々々しい闘いの日々から逃げ出さずにいるのだ。

「ほんとに一緒に謝ってくれるのか」
「ええ。だからね、変なこと言い出さないでください。氷河がいなくなっちゃったら、僕、寂しいですよ」
「ほんとか?」
「ええ」
「ほんとにほんとか?」
「ええ」
「よし。じゃあ、起きる」

瞬の確約に気を良くした氷河は、とりあえず、もう少し前向きにキグナス氷河としての人生を生きてみることにしたのである。
今度こそ、自分の人生のこの先に、もしかしたら幸福を手にすることのできる時があるのかもしれないと、密かな期待を胸に抱きながら。






Fin.






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