孤高の姫君

〜 かれやんさんに捧ぐ 〜







「お姫様ごっこをするわ!」

城戸沙織が高らかに誇らかに宣言したのは、とある初夏の日の午後だった。

宣言されたのは、星矢、紫龍、氷河、一輝、瞬(共に苗字不明・順不同)の5人の子供たち。


「……おい、邪武はどーしたんだ」
「日頃の過労がたたって寝込んでる」
「誰か後で奴に城戸光政への補償請求の仕方を教えておけ。これは立派な労働災害だ」
「しかも、児童福祉法に違反している」

どれが誰のセリフなのかに意味はない。
ともかく、一輝、紫龍、氷河の間ではそーゆー会話が交わされ、星矢と瞬は、年長組三人の横で互いに顔を見合わせた。


「星矢。お姫様ごっこって、どんなことするの?」
「お姫様が、家来に色々命令するんだろ。『馬におなり〜!』とかさ」
「それ、いつものお馬さんごっことどう違うの?」
「いつもとおんなじさぁ。ただ、今日は邪武がここにいないってだけ」
「……」


どれが誰のセリフなのかは、説明しなくてもわかる。
してみると、この二人の方が、年長組三人よりも、キャラ設定がしっかりしているということなのだろーか。そんなはずもないのだが。


ま、それはともかく。

今、自分たちが危殆に瀕していることを知った瞬は、恐怖と不安に、早くも泣きの態勢。
これまでいつもそうだったように、兄たち年長組が自分たちを守ってくれるだろうとは思っていたが、兄たちへの信頼感と城戸沙織に対する恐怖感とはまた別物なのである。


「沙織お嬢様。悪いが俺たちはあんたの提案に拒否権を行使させてもらう」
「ついでに邪武に医者を手配することと、奴の症状に関する診断書の発行を求める」
「お嬢様がどうしても自分の我儘を通したいと言い張る場合には、俺たちはその診断書を持って、児童福祉相談所に駆け込むことになると思うが」
「いや、昨今の役所は信用ならないからな。いっそ、わざと下手くそな英語で訴状を書いて、アメリカ合衆国大統領に送りつけるというのはどうだ? 外圧に弱い我が国のこと、その方が国も早く事態収拾に乗り出すんじゃないか? アメリカ国民が好みそうな話じゃないか。なりあがり日本の理不尽で野蛮な児童虐待、それに比して自国の人権擁護体制の優秀さ。奴等の優越心を刺激してやるんだ」
「そこまでしなくても、日本のマスコミにたれ込むだけで充分だろう。その方がお手軽だし効果的だ」

平均年齢8歳の年長組の倣岸な要求と脅迫に、さすがの城戸沙織もたじろぎ気味である。

彼等の言っていることの意味は、実は沙織には毛ほどにも理解できていなかったのだが、ともかく、彼女は、他人のそういう態度に不慣れだったのだ。いつも彼女の側近くにいるのは、自ら望んで馬になる邪武や、城戸家に給金を貰って勤めている使用人たちばかりだったから。
沙織の我儘は半ば以上沙織の責任ではなかったろう。周囲に、彼女の命令に服従する人間しかいないという、環境のせいなのである。


それはさておき。

兄たちに追い詰められた沙織を見て、先程までの恐怖と不安はどこへやら、瞬の瞳は別の涙で潤み始めていたのである。
『自分たちの身は自分たちで守ろう』をスローガンに夜毎の勉強会を欠かさない兄たちに、乗馬以外の学習行為をしたことのない沙織が敵うわけがない。
瞬の目に、沙織は、時代と社会制度という巨大な風車に一人で立ち向かう哀れなドンキホーテのように映っていた。

事情はともあれ、失意に満ちた少女が一人、(己れの我儘が通らない)悲しさと無力感に打ちのめされ、唇を噛みしめているのである。
『男の子は弱い者を助けてあげるもの』という、間違った認識をその胸に抱いていた瞬は、兄たちに無邪気に進言したのだった。

「あの……一緒に遊んであげようよ。沙織お嬢さん、邪武がいなくて寂しいんだと思うの」


「…………」×5(含む 沙織)


事ここに至ってやっと、年長組三人の個性が表れてくる。

「瞬がお姫様なら、一緒に遊んでやってもいい」
即座に氷河の返事。

少し遅れて、
「まあ、瞬がお姫様なら……無理は言わないだろうし……」
と、これが紫龍の答え。

一輝は無言で、即行返答の氷河を睨みつけている。

そして、そんな三人を押しのけるように、沙織の自己主張が炸裂した。

「お姫様は私よっっ!!!!」

「なら、俺は嫌だ」
言下に拒否するのは、これまた氷河で、

「俺も、邪武みたいになるのはやだなぁ。おじょーサマがお姫様だと、無理難題言われそうだしさぁー」
氷河に同調するのは星矢。

正直この上ない二人の拒否に合って、沙織がまた拳を握りしめる。
その様子を見た瞬は、慌ててとりなしに入った。
「あっ…あの、僕、男だから、お姫様より王子様の方がいいな」

「なら、俺は王子の騎士をやる」
またしても即行返答は氷河だった。

「騎士って腹が減りそうじゃん。瞬が王子サマなら、俺、王子の馬でもいいぜ?」
「…………」

確かに瞬が王子というのであれば、その馬というのは、なかなかに魅惑的な職務を帯びた役柄である。氷河は、返答を早まってしまった己れに、少々後悔など感じていた。

氷河のそんな後悔など知らない沙織が、これまたまた高らかに厳かに命令する。
「じゃあ、一輝と紫龍は私の家来をしなさい!」

「いや、俺は、放浪の末、瞬の国に辿り付いた食客でいい。おヒメサマの家来など、畏れ多くて、俺には務まらんだろう」
「俺は、瞬の国の環境保護大臣か農林水産大臣の役がいいな。お姫様の国には森林や畑はなさそうだ」

理由が添付されている分、断固とした拒絶には聞こえないが、拒絶は拒絶である。

これまでどんな人間にも“否”と言われたことのなかった沙織が、ここまで徹底して人に拒絶されたのは、実は生まれて初めてのことだった。

で、沙織は唇をわななかせ、ヒステリックに叫んでしまったのである。
「私がお姫様なのよっっ! お姫様に家来がいないなんておかしいわっっ!!!!」

それは、孤独と苦渋に満ち満ちた悲痛な叫びだった。
本来ならここで、瞬の慰めの言葉が出るところだったろう。
だが、瞬は、ヒステリックに泣きわめく沙織に、同情心より先に恐怖を覚え、怯えきってしまっていたのである。

仕方がないので、瞬の代わりに、またしても年長三人組が乗り出してくる。
もっとも、彼等の慰めは、瞬ならそうしたであろう慰めとはかなり趣を異にしていたが。

「お嬢さん。権力者とは孤独なものだ。あんたはいずれグラード財団の長になる身だろう。ならば、権力者の孤独には慣れておいた方がいい」
「そうだな。権力者というものは、暗殺を恐れて人前に出ず、裏切りを恐れて友人を作らず、自分の地位を守るために親族を殺し、家庭を持たず、毒殺を回避するために他人の調理した料理を食べず、自分の部屋で卵を茹でて、一人でそれを食べるものだ」
「人の上に立つ者の悲哀か……。俺たち下々の者には到底ついていけないな」

どうやら、年長三人組が没個性になるのは、相手が沙織だかららしい。彼等は、どれが誰のセリフなのかわからないセリフをそれぞれに吐いて、わざとらしくも鎮痛な表情を自らの顔に貼りつけた。

三人組の言葉に反応したのは、しかし、沙織より瞬の方が早かった。
「ぼ…僕、王子様やめる。毎日茹で卵だけなんてやだ」
「ああ、瞬はいいんだ。瞬は王子様でも、権力者じゃないから」
「ほ…ほんと?」

紫龍に、瞬へのセリフを奪われた氷河は一瞬ムッとしたが、紫龍の言葉に安堵した瞬ににっこり笑いかけられて、彼はすぐに機嫌を直した。

対して、権力者の悲哀にどっぷりつかった沙織は、それどころではない。
未来の権力者とはいえ、今の彼女は、まだ10歳にも満たない幼い少女なのである。

年長組の言葉は、彼女の胸に尋常でない恐怖を呼び起こした。
握りしめた拳をぶるぶると震わせて、深く顔を伏せている、未来の孤独な権力者――。

ケーキも食べられず、命令できる“友人”もなく、パーティに出て、『まあ、可愛らしいお嬢様』とお世辞を言ってくれる人もいない生活――。沙織には、それは到底耐え難いものだったのだ。


ところで、瞬は、ヒスを起こしているおヒメサマには近寄れないが、肩を落としている女の子には優しくしてやることができる少年だった。
故に、彼は、無言で俯いている沙織の側に行き、今にも泣きだしそうなその顔を覗き込むと、必死になって、この孤独なお姫様を慰め始めたのである。

「あ…あの、沙織おじょうさま。沙織おじょうさまも、おじょうさまをやめちゃえばいいんじゃないかな。そしたら、おやつのケーキも食べられるし、ひとりぽっちじゃなくなるでしょ。ひとりぽっちって嫌だもの。ひとりぽっちの人を見てると、僕まで悲しくなるもの」

「瞬……」

瞬の優しい言葉に、沙織は胸を衝かれる思いだった。
周りの人間を家来と思うことをやめさえすれば、ケーキを食べられるようになる――のである。
その動かし難い事実を知らされた時、ケーキよりも権力を志向する人間がどこにいるだろうか。そんな人間がこの世に存在するはずがない(と、作者は思う)。


――そうして。
権力者の孤独ではなく、瞬の優しい心に打たれて、沙織はぽろりと一粒涙を零したのだった。

「そ…そうね。そうすればいいのよね。やめるわ、私、お嬢様なんて。瞬もみんなも、これからは私のこと、沙織お嬢様じゃなく、沙織ちゃんって呼んでくれる?」


「…………」×4(除く 瞬・沙織)


沙織の言葉を、星矢たちが『気持ち悪い』と感じたとしても、それは仕方のないことだろう。
書いている作者でさえ、そう思うのだから。

にも関わらず、瞬は――瞬だけは、沙織の決意を心から喜んで受け入れたのである。

「うん。一緒に遊ぼ。沙織ちゃん」


「…………」×4(除く 瞬・沙織)


瞬と沙織は、当然のことながら、自分たちの言動を不気味とは思わない。かくして、二人は、二人を胡乱な目で見詰める四人の沈黙をよそに、仲良くお姫様ごっこならぬ王子様ごっこを始めてしまったのだった。

「そうね。私は、瞬王子のお姉さん役でいいわ。あ、もちろん、瞬の方が偉いのよ。次の王様になる人なんだから」
沙織にしては殊勝な言葉。

それまで絶句していた四人も、沙織が自らのこれまでを猛省して心を入れ替えてくれたなら……と、多少の薄気味悪さを覚えつつも、とりあえず王子様ごっこに加わる。


「あ、じゃあ、瞬王子様。何かご命令を」
専制国家においては上の者の命令無しには何の行動も起こせない環境保護大臣の要請が、しかし、一見順調に滑り出したかのようだった王子様ごっこを頓挫させた。


「え? 命令?」
瞬王子は、それまで一度も人様に“命令”などというものを下したことがなかったのである。経験したことも学習したこともない行為を、瞬はなかなか実行に移すことができなかった。




…………………………………………。




長い長いながーい沈黙。
20分間、それでも、王子の家来たちは王子の命令を待った。



そして、その長い沈黙が終わる頃、聖闘士の卵たちは、この世には権力者というものの存在が必要なのだという事実を思い知ったのである。






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