「天が、危難の席に着く者に望んでいるものは何だったんだ?」

ベンウィックに渡る船の船尾から、徐々に遠ざかるログレスの町を見詰めていたシュンは、ヒョウガにそう尋ねられて、微かに苦笑しました。
「本当は、僕にもよくわかってないの」

ただそれは、神のごとく完全に汚れなく高潔な魂でないことだけは、シュンにもわかっていました。そんな人間は、この世には存在しないのですから。

「でも、自分でないものの幸福のために、穢れと罪を耐える心だったのじゃないかと、僕は思っているの。自分の欲のためではなく、自分の平穏のためでもなく、自分の幸福のためにでもなく、罪と穢れとを、甘んじて我が身に受ける心だったんじゃないか、と」

シュンは、その時、自らが信じている神の教えを地上にもたらした“人間”のことを思っていました。
ヒョウガは、全く別のことを考えたようでしたが。
「それは誰だって持っている心だろう。俺はおまえのためなら、人殺しだろうが盗みだろうが何だってするぞ。そのために、地獄に堕ちても構わない」

「それは僕のためにはなりません! ヒョウガがそんなことをしたら、僕は不幸になります!」

「…………」
思いがけないシュンの剣幕に、ヒョウガは一瞬たじろぎました。
その様子を見てとったシュンが、ゆっくりと表情を緩めます。

「……ヒョウガ。誰かのために何かをするって、多分とても難しいことなの。まして、大勢の人のために何事かを為すのは、神ならぬ身の僕たちには、大きな困難がつきまとうことになんだと思います。これからベンウィックに戻ったら、ヒョウガは、ベンウィックの平和のために尽力するのでしょう? その時に――ヒョウガが誰かの窮状を救ったとしても、救われなかった人が『何故私を救ってはくれなかったのか』って、ヒョウガを恨むかもしれないですよね。でも、だからって、誰も救わないでいたら――」

「誰も救われない。俺がいちばん救われないな」

ヒョウガのその言葉に、シュンは安心したように微笑しました。
神ではない故に不完全な人間は、全能の神にはできない努力というものができるということを、ヒョウガがちゃんと知っていてくれることを喜んで。

「ヒョウガがそんなことにならないように、僕、お手伝いします」

一見した限りでは、まだ幼い少女にしか見えないシュンの決意に触れて、ヒョウガはひどく満ち足りた気持ちになりました。
シュンが側にいてくれたなら、どんな困難も乗り越えていけるような――そんな気持ちになったのです。

「おまえは、俺を幸せにするのがとても上手い」

「……誰かのために何かをするって、とても簡単なことでもあるから……。ほんのちょっと、その人と同じ心を持てばいいだけなんだと思います」

長い間周囲を欺き、欺くことで自身が傷付いていたシュンは、人の世の穢れも偽りも方便も知っていましたが、それ故に、その穢れ故に、本当の優しさと強さを心の内に育んでいたのだったかもしれません。
年下の小さな少年の言葉から、ヒョウガは希望と夢とを貰ったような気がしたのです。





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