「この男だ。この男を堕落させることができたら、兄を地下界から解放してやろう」 そう言って地獄の王が示した水盤に映ったのは、金色の髪をした23、4歳の青年だった。 「どうだ? 綺麗な男だろう? この男はな、10代の頃は、悪魔が涎を垂らして喜びそうなくらい荒んだ生活をしていたんだ。それが、瞬という少年に会って、今度は天使が泣いて喜びそうなくらい真っ当な人間になってしまった」 「瞬?」 地獄界の王の酷薄な唇から出てきた自分と同じ名前に、シュンは唇の端を微かに歪めた。 天界の聖霊だったシュンを一時は支配し、今またその霊を漆黒に染めようとしている地獄の王が、シュンのその反応を見逃さず、端然とした面立ちにふさわしい微笑を形作る。 人間を誘惑するものであるという限りにおいて、悪魔は美しくなければならないというのが彼の持論だった。いっそ、清純で可憐でさえあった方がいいと、彼は考えているようだった。 だからこそ、彼は、シュンを彼自身の依り代としようとしたのだろう。 かつては、堕ちたる人間の辿り着く果て――地獄――の存在も知らずに輝いていた、天界で最も無垢の聖霊だったシュンを。 闇に勝利するためには、闇の何たるかを知っていなければならない。 闇の力に抗するには、あまりにシュンは闇の力を知らなさすぎた。 まるで人間だけでなく天使をも試そうとするかのように、神がシュンに与えていた自由意思も災いし、シュンは抗う術もなく、地獄の王に支配されてしまったのてある。 シュンを地獄の王から解放したのは、彼の兄に当たる聖霊だった。 座天使である自分の霊を王に捧げる代わりに、シュンの霊の解放をと、彼は地獄の王に持ちかけた。 神の寵愛著しいとはいえ、最も下位の天使に過ぎぬシュンの霊と、座天使の長の霊。 地獄界の王は、シュンの兄の提案にしばし悩んだが、結局はその交換条件を飲むことにした。 かくして、シュンの兄は耀く天の聖霊の座を放棄し、漆黒の闇の世界に囚われることになったのである。 シュンの兄を地獄の囚人にすると、地獄界の王は約束通り、シュンを解放した。 そして、解放するなり、シュンにかつての栄光を失った兄の姿を見せたのである。 「兄を救いたいだろう? おまえには、かつては光輝そのものだった兄の、今の姿は耐えられまい」 「どうすればいいの !! 」 光そのものだった兄が闇に掴まれ、苦しみに呻く様に、シュンは震駭し、そして悲嘆した。 「おまえの兄との契約があるから、私はもうおまえには手出しができない。代わりに、人間の魂を一つ堕落させてこい。『愛』という愚かなものに、今地上で最も強く支配されている人間を一人。それを成し遂げれば、おまえ自身も悪魔に成り果てるが、少なくともおまえの兄だけは、元の光輝を取り戻すことができるだろう」 「兄さんのために――ううん、僕のために、人間を犠牲にしろと言うの!」 天使は、神によって、人間の幸福のために、神と人間に仕えるためにつくられたものである。 地獄の王の言葉は、神の命令に真っ向から逆らうものだったのだ。 「それくらいはしてもらわねば。せっかく手に入れた座天使の長の霊。地上でうごめいている人間たちの魂の半分と引き換えでもまだ足りないくらいだ。まあ、奴も愚かだったのだがな。いくら弟とはいえ、ほとんど何の力もない、ただの天使のために」 「…………」 シュンは唇を噛んだ。 光と力でできた豪胆な兄は、シュンの誇りだった。 その兄が、今、自分のために、闇と汚辱にまみれて苦しんでいる。 兄の光り耀く姿を取り戻すことに比べたら、地上に何十億と存在する愚かな人間の魂の一つや二つが何だというのだろう。 シュンは、かつて自分を支配し、今また己れの支配する闇の中に自分を招き入れようとしている地獄の王に、硬い表情で頷き返した。 |