部長と常務の間には

〜謎の関西人さんに捧ぐ〜






その子供は、その場から2、3時間は動いていないのだろう――と察せられた。
テーブルの上には冷めきった紅茶と、手つかずのケーキが載ったウェッジウッドの皿。
歳の頃は、16、7。どう見ても高校生である。

週に2、3度は顔を出す馴染みの店に入った氷河は、他に客のいない店内で、しょんぼりと肩を落したその子供を見付けたのだった。

「坊や、ここは10時以降は酒を出す大人の店になるんだ。子供は家に帰るんだな」

氷河の友人が経営しているその店は、10時の開店から9時までがティーラウンジ、1時間の準備時間を間に挟んで、それ以降深夜まではバーになる。
「紫龍、なんで追い返さないんだ」
氷河は、カウンターで趣味のアクアリウム設計のデザイン画描きにいそしんでいる、この店の夜間の責任者に声をかけた。

「僕、坊やじゃないです…! もう22になりました」
それまで、まるで人形のように微動だにしなかったその子供が、氷河の言葉に反発したように――だが、やはり顔を俯かせたままで――くぐもった声を発する。

「だそうなんで」
カウンターの中で肩をすくめてみせる紫龍に、氷河は疑わしげな視線を向けた。
「本当か」
「確認した。保険証で」
「……持ってるものもお子様だな」
IDカードや免許証は無理でも、せめてパスポートくらいは呈示して欲しいものである。
――大人なのなら。


「で? そのオトナが、ケーキも食べずに何をしょんぼりしてるんだ」

この店は、氷河と同じ養護施設で育った星矢と紫龍が、それぞれ日中のティーラウンジと夜間のバーを切り盛りしている。三人で出資し合って出した店で、ほとんど氷河の第二の家のようなものだった。
今の時刻は、本来ならティーラウンジからバーへの準備時間中、店内に客はいないはずの時間帯である。
その意気消沈ぶりに、紫龍も無理に追い出すことができなかった――というところなのだろう。

「…………」
氷河のからかい半分の問いに、オトナからの返事はない。
氷河は無反応なコドモに、僅かに目を眇めた。

「察するに就職した会社でやっていく自信がなくなったとか」
「…………」
「図星か」

22歳という自己申告が嘘でないならば、このコドモは、ちょうど大学を出て就職した歳である。
それは、気楽な学生生活から社会人になって、企業の一員としてやっていく自信をなくし、フリーターへの道に足を踏み入れることになる年齢でもあった。
が、そのオトナの悩みは別のところにあったらしい。

「ち…違うの。違うんです。就職はこれからするの。僕、兄の命令で兄の会社に入ることになったんです」 
「この就職難のご時世に、良かったじゃないか。なんでそんなに沈んでいるんだ」

おそらく、“兄の会社”というのは、小さな同族会社か何かなのだろう――と、氷河は思った。
昨今は、海外からの帰国子女を受け入れるために、春と秋の年2回定期採用を行なう企業が増えてきたが、冬に片足を突っ込んだこの時期に新卒を採用する企業はまず無い。それができるのは、融通のきく小さな会社だけだろう。

「でも、僕……僕、ほんとはお花屋さんかケーキ屋さんになりたかったの。でも、僕は、両親を亡くしてからずっと兄に育てられてきたようなもので、だから嫌だって言えなくて……」

肩を縮こまらせるようにして、膝の上で拳を握り締めるその子供に、氷河は少々同情した。
どうやらこの子は、自分のしたいこともわからないモラトリアム人間というわけでもないらしい。自分の進みたい道と、兄の期待に沿いたいという気持ちの間で、迷い揺れ動いているだけなのだ。

人は“組織”から抜け出ることはできない。
家族という組織、友人という組織、企業という組織、社会という組織。余程孤独を愛する人間でもなければ、組織を抜けるという行為には痛みと代償が伴う。
そもそも組織に属していなければ、人は自分の生命を維持することすらできないのだ。
そして、人が一人で成し遂げられる仕事はあまりにも小さい。

しかし、組織の中にいる限り、人は、自分の望みをいつも叶えられるとは限らないのである。

「ふん、あっちもこっちもままならないものだな」
これは、事情も心得ていない他人が口出しをしていいことではない。
氷河は、その悩める子供にちょっかいを出すのは早々に切り上げることにした。


「なんだ。その子だけじゃなく、おまえまで何かあったのか」
紫龍が、金は出すが口は出さない実によくできた出資者のぼやきに顔をあげる。

「いや、今度の役員人事がな」
「お、ついに役員か? 常務殿になるのか」
「いや。社長の身内が常務取締役として、うちの部署に就任することになったんだ。役員会の連中も、さすがに20代の俺を役員にするのは早すぎると判断したんだろう。今の役員連中は一番若いので50になったくらいだからな」
「しかし、おまえんとこの社長は徹底した実力主義と大胆な人材登用で有名で、確か、社長自身もかなりの若手なんだろう?」
「似たような歳でも、アチラさんは最初からあの会社を継ぐために帝王学を学んできた恵まれた奴で、俺たちみたいな養護施設育ちとは訳が違うのさ」

氷河の勤めているグラード・ファイナンシャル・プランニング社は、旧城戸財閥系のグループ内にある金融会社だった。グループ全体の資産運用を担っていて、年間で動かす金額は日本の国家予算に匹敵するほどの額になる。
毎日、毎週、毎月、毎年、業績が金額で明示されるシビアな業界。
氷河は、2年前にその財務部門の担当部長に抜擢されていた。


「俺はまあいいんだが、俺を次期役員と見込んで俺にまとわりついていた取り巻き共や、俺の作ったプロジェクトチームのメンバーがぎゃーぎゃーうるさくてな」
氷河はカウンター席に腰をおろすと、大仰に肩をすくめてみせた。
「俺を牽制するための社長一族の陰謀だとか言い出す奴までいる。……まあ、誰が来ても、どうせお飾りにするしかないだろうがな。仕事を知らない年寄りに口出しされて、オフィスを混乱させられるのは御免だ。適当に祭り上げて、無視して、今まで通りやらせてもらうさ」

「おまえなら、うまくやるだろう」
紫龍が意味ありげに、顎を引いてみせる。
同じ施設で育った友人の、善良だけではない有能さと合理性を、紫龍はよく承知していたのだ。


オトナの二人の会話に、カウンターから少し離れたテーブル席から、ふいに先程のコドモが溜め息と共に口をはさんでくる。
「……大変なんですね、会社勤めって。だから僕、そんなのより――」
「大変じゃなさそうなケーキ屋になりたかった?」
「そんなわけじゃ……」
「どこに行ったって、苦労ってものはあるんだ。元気を出せ。兄貴と一緒に働くのも楽しいかもしれないぞ? どうせ今すぐケーキ屋を開く当てがあるわけでもないんだろう? 兄貴と仕事をしてみて、どうしても駄目だったら、その時もう一度考えてみても遅くはないさ。おまえはまだ若いんだから」

「……はい」

頼り無い返事をして頷き返すコドモに、氷河は再び視線を戻した。
それはひどく綺麗な子供で、子供らしい大きな瞳が不思議なほど澄んでいた。
両親の代わりにこの子供を育てあげたという兄に、よほど愛されてきたのだろう。
その愛情が、この子供から自由を奪っているのかもしれない。
しかし、氷河には、この子供の兄の気持ちもわかるような気がしたのである。
自分の翼の中で大切に守っていたい――その子供には、そんなふうな気持ちを抱かせる風情があった。

「おい、紫龍。ミルクくらいあるんだろう。出してやれ。この子のお茶はもう飲めん」
「あ、そんな、いいんです」
子供は、冷えたお茶の入ったカップを両手で包んで、氷河の厚意を遠慮してみせた。

オトナから見れば些細な悩みも、この子供には自分の人生を左右するほどの重大な悩み事なのだろう。
そんな時期が自分にはあっただろうか――そんなことを考えながら、氷河はその子供に微笑いかけた。

「辛かったらここに来ればいい。愚痴くらい聞いてやるぞ」
「え」
「俺は週に2、3度は、この時刻にここに来るからな。ここの経営者は、同じ施設で育った、俺の兄弟みたいなもんなんだ。兄貴に愚痴は言いにくい、んだろう?」
「はい。いえ、あの……」

思いがけない氷河の言葉に戸惑ったようだった子供は、しかしすぐに嬉しそうに口許をほころばせた。

「ありがとうございます! 僕、頑張ってみます!」
少し明るさを取り戻したその子供は、そう言ってから、思い出したように『瞬』と自分の名を名乗った。





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