「お、来たのか、キグナス、アンドロメダ」 「…………」 「…………」 赤、白、黄色に紫の薔薇。 双魚宮にあった薔薇園ほど節操を欠いているわけではないが、それにしても見渡す限り薔薇の花の洪水。 『世界の薔薇展』が行われている薔薇園に入った氷河を最初に襲ったのは、かなりきつめの薔薇の香りだった。 本来、あまり香りのきつくないチューリップや桜の花が好きな瞬も、その香りの強さには、少しばかり辟易しているように見える。 しかし、氷河と瞬は、そんな薔薇の香りになど驚いている場合ではなかったのである。 きつい薔薇の香りの次に彼等を出迎えたもの――それは、黄金聖衣を脱ぎ、鼠色の作業着に身を包んだ魚座の黄金聖闘士その人だったのだ。 「ア…アフロディーテ……」 瞬が、呆然としてその名を呟くと、土木建築業従事者と大して違わない格好をした魚座の黄金聖闘士は、にこやか かつ 晴れやかな笑顔を瞬に向けてきた。 「いや、実に全く、美しいこの私に適した職場だ。美しい薔薇に囲まれて、人類の敵と闘うことができるとは」 「じ……人類の敵…って?」 自分で尋ねておきながら、瞬はその答えを聞きたくないと思っていた。 どこにその根拠があったのかは知らないが、それでも無意味に誇り高かった魚座の黄金聖闘士。 その魚座の黄金聖闘士の口から、 「薔薇は寒さに弱いから、ここは外気より10度ほど室温を高くしてあるんだ。そして、暖かい場所には大勢潜んでいるものなんだな、リリィちゃんは」 ――などという答えを。 「…………」 「どうだ、アンドロメダ? 美しい私にふさわしい仕事場だろう?」 自信満々でそう告げる、美貌の聖闘士に、何と答えればよいものだろう。 手入れの行き届いたその白い手に、移植シャベルを握りしめた魚座の黄金聖闘士に。 瞬が呆然としていると、アフロディーテの横から、かつてはアテナに造反を企てた反逆者が顔をのぞかせる。 「いや、薔薇の世話がこんなに大変なものだったとは……。アフロディーテ、感謝するぞ。以前はおまえの薔薇園から届けられる薔薇をただ美しいと思うだけで、よもや、あの美しさの陰にリリィちゃんやアブラムシとのこれほど熾烈な闘いがあったなどとは、私は一度も考えたことがなかった」 「なに、気にすることはない。しかし、美しいものを作るということは、なかなか手間のかかる作業なんだ。私自身、就寝前には毎晩パックとマッサージを欠かしたことはない」 「なるほど。その美貌の裏には、血の滲むような苦労が隠されていたのだな」 「…………」 僕は、こんな人に、あの優しかった先生を殺されたんだ――瞬は、愕然としながら、思うともなく、そう思った。 瞬は、今はもうアフロディーテへの恨みを抱いてはいなかった。 憎しみは憎しみをしか生まない。 憎しみの鎖を断つことが、すべての人の幸福に繋がるのだと信じればこそ。 アフロディーテの薔薇を愛する心は疑うべくもなく、リリィちゃん殲滅というその仕事も立派なことだとは思う。 しかし――しかし、それでも瞬は、憂鬱な気分を拭い去ることができなかった。 |