「瞬って潔癖症だったっけ?」

星矢が突然そう言い出したのは、冥界での闘いが終わり、ハーデスが地上にもたらした混乱も収束を迎えつつあったある日の午後のことだった。

城戸邸のラウンジに毎日平和なお茶の時間が訪れるようになって、一ヶ月。
春が近いと感じさせてくれる日々を、アテナの聖闘士たちは満喫していた――はずだった。

星矢のその言葉に、氷河が怪訝な面持ちになる。
それから、彼は、たった今、用件も告げずに席を立ったばかりの瞬がそれまで座っていた空間を、ちらりと横目で見やった。

「今朝方、瞬とダベってたんだけどさぁ、その最中に瞬の奴、何度も何度も席を立つんだよ。何してるんだろうと思って後をつけてみたら、血相変えて自分の手を洗っててさぁ」

「……手?」

事情が飲み込めずに眉をひそめた氷河に、手にしていたティーカップをソーサーに戻した紫龍が、これまたふいに思い出したように顔をあげる。
「そういえば、夕べもそうだったな。映写室で映画を見ていたんだが、瞬が途中で何度も席を立って――2時間とちょっとの間に、5、6回は席を外したぞ」

「…………」

氷河はそんな場面に出合ったことがなかったので、軽く顎をしゃくって、少しばかり心配顔をしている二人に告げた。
「潔癖症ってことはないだろう。本当に潔癖症な人間は他人とは寝られんだろーし。瞬は夕べも俺と――」

助平男の自慢話など聞いていられないとばかりに、紫龍が氷河の言葉を遮る。
「いや、潔癖症っていうのは、誰が触れたのかもわからないものに触れるのを恐がるんであって、自分が何に触れているのかがちゃんとわかっている分には、平気なんじゃないのか?」
「そんなら、なおさら変じゃん。今朝の瞬は、何にも触ってなかったんだから。触ってたのは……せいぜい自分の手くらいだ」

「…………」

それは、確かに妙なことといえば妙なことではある。
氷河は初めて、少しばかり真面目な顔になった。

と、そこに、瞬が戻ってくる。

自分が仲間たちに話題を提供していたことを瞬に知らせないために、氷河は意識して何気なく彼に声をかけた。
「瞬、お茶がはいってるぞ」
「あ、ありがと」
にこりと微笑って、瞬が、氷河の座っている長椅子の隣りにふわりと腰をおろす。

その瞬の手を、氷河はさりげなく盗み見たのである。

瞬の白い手は、指も手の平も小さな薄桃色の爪も、これまでと何の変わりなく綺麗なものだった。






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