氷河が、瞬の様子が確かにおかしいということに気付いたのは、その夜のことだった。 自分の下で喘いでいる瞬の切なげな表情はいつもと変わらないのに、何かが昨夜までの瞬と違う。 星矢たちに聞かされていた話が頭にあった氷河は、すぐに視線を瞬の“手”に走らせた。 そして、その手を確認する前に、そうできること自体が既に間違っているのだということに気付く。 いつもなら、瞬の腕は自分を組み敷いている男の背にまわされていて、氷河は瞬の手を見ることなどできないはずだったのだ。 しかし、瞬の手はそこにあった。氷河の視界に入るところに。 ベッドの上に投げ出されているような腕の先で、きつくシーツを掴むようにして、瞬の手と指は――。 「…………」 いつもと違う。 確かに、今、氷河の胸の下にいる瞬は、いつもの瞬ではなかった。 (瞬……?) 氷河は、瞬の脚に触れていた手を、その身体の線をなぞるようにして胸まで運び、肩を撫辿って腕に運んだ。そのまま徐々に瞬の左の手首へと向かった氷河の指は、しかし、瞬の手に触れようとした途端に振り払われてしまったのである。 他でもない、氷河が触れようとしていた瞬の手によって。 「瞬? どうしたんだ?」 それは無意識の所作だったらしい。 自分で自分のとった行動に驚いてしまったらしい瞬は、氷河に尋ねられて、その瞳に戸惑いの色を浮かべた。 「あ……あの……」 「どうしたんだ、いったい」 「……ちょっと……ちょっとびっくりしただけ……」 「…………」 手に触れる――触れられる。それが“びっくりするようなこと”だろうか。 氷河は、瞬に、これまで、散々瞬がびっくりするようなことをしてきた。 戸惑い恥ずかしがりながらも瞬は、いつも氷河のすることを受け入れてくれていたのだ。 それが――。 「もう……大抵のことでは驚かなくなったと思っていたんだが」 怯えたような瞬の反応に何故か微かな怒りを覚え、氷河は瞬の手首を掴みあげた。 「この手の中に何かあるのか、俺に知られたくない秘密でも」 そう言って、氷河は瞬の手の平に唇を押し当てた。 途端に、瞬の指先が強張る。 そして、それはすぐに小刻みに震え始めた。 瞬は、固く目を閉じ、唇を噛みしめている。 瞬が、自分を凝視している男の手から己れの手を取り戻したいと思っているのが、氷河にもわかった。 瞳でなく、唇でなく、髪でもなく、声でもない、手――といえど、それは瞬の一部である。故にそれは氷河のものであるはずだった。 氷河は、無論、瞬にそれを返してやる気にはならなかった。
「氷河、やめて」 瞬の泣きそうな声が、氷河に訴えてくる。 「何故だ」 他の部分をすべて許してくれている瞬が、何故“手”だけを許してくれないのか。 そんなことがあっていいはずがないではないか。 「これも……俺のものだろう…?」 そう問われた時、いつもなら頷くはずの瞬が頷かない。 「瞬……?」 「痛い……」 瞬の声は、手折られかけた野の花のようにか細かった。 「痛いの。放して」 「痛いなんて、そんなことあるはずがないだろう」 傷一つない白く優しく滑らかな手。 氷河は、瞬のそんな我儘を聞くつもりはなかった。 瞬のその手は、今その手首を掴みあげている男のものだと、氷河は信じていた。 他の誰のものでもないのだと、氷河は信じていたのだ。 そのことを瞬が認めて大人しくなるまではと、執拗に瞬の手の平に這わせ続けていた唇と舌に鉄の味を感じて、氷河はやっと事態が尋常でないことに気付いたのである。 瞬の手首を掴んだ手はそのままに、唇だけをその手から離す。 「瞬……!」 瞬の手の平には、いつのまにか痛々しい傷痕ができていた。 そして、その傷口からは、目を刺すほどに鮮明な赤い血が滴り落ちていたのである。 |