pride

〜 まきちさんに捧ぐ 〜






『誰に限らず、愛を得たいと願う者は誇りを捨てよ』


――オウィディウスの『アルス・アマトリア』。

なぜそんな本がそこにあるのか、一輝は知らなかった。
誰かが古代の地中海世界について学ぼうとして、その内容の卑俗さに呆れて放り出したのかもしれない。

「ふん。くだらん」

その本のページを閉じて、一輝は窓の外に目を向けた。
ほんの少し前まで、そこは、空や雲や陽光がそれぞれの色を主張し合う幼児のクレヨン画  のような場所だったが、今はその色にも穏やかさが混じっている。
城戸邸の庭には、秋が来ていた。


「氷河、見て。撫子の花が咲いてる。ここに一株だけ」
秋の静かな光を受けている城戸邸の庭の片隅に、瞬がしゃがみこむのが見えた。
一輝には陰になって見ることはできなかったが、おそらくそこには、あの淡いピンク色の羽のような花が咲いているのだろう。

「撫子って、小さくて可愛い子っていう意味なんだよ。でも、野草だから、存外に強いの。どうして、こんなところに咲いてるんだろ」

瞬の独り言のような問いかけに、尋ねられた男は微かに笑っているだけで、何も答えない。
氷河が何を考えて笑っているのかが容易に推察できて、一輝は不愉快になった。
(どーせ、『まるで、おまえのようだ』とか何とか考えているんだろう、あの馬鹿野郎は!)

そんなセリフを、もし氷河が実際に言葉にしてしまっていたら、一輝は問答無用で、その恥ずかしい男を殴り倒すために、庭ら飛び出ていただろう。
自身にとって幸いなことに、氷河はそのセリフを口にはしなかった。

氷河を殴り倒す理由を手に入れ損なった一輝は、それでまたムカついてきてしまったのである。


「誇りを捨てて得たものに、誇りを持てるか」

そう呟きながら、しかし、一輝は、そう呟かずにいられない自分自身に苛立っていた。






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