「氷河っ !! 」

そして、天使は、天使を堕天させまいとして苦悩している悪魔の許に舞い降りた。
悪魔は、誰もいないラウンジのソファに身を沈め、悩めるキリストのごとく、壁のただ一点を無気力に眺めていた。

「氷河は、ぼぼぼぼ僕とそういうことししした……」

瞬の辞書は、星矢とは逆に『直截』の単語が欠け落ちている。
瞬は、たった今紫龍の部屋で耳にしてきた言葉を、自分にも使用可能な単語に変換した。

「氷河があんなに冷酷なことするようになっちゃったのは、僕のせいなのっ !? 」

「何を言っている」
悪魔といえど、万能ではない。
意訳に過ぎた瞬の言葉は、悪魔には通じなかった。

「ぼぼぼぼ僕……」
「?」
瞬にしてみれば深刻極まりないこの場面が、傍から見ると大コメディである。

「ぼ…僕、平気なんだから!」
「瞬?」
「平気だよ! 氷河が元の氷河に戻ってくれるんだったら!」
「おまえは何を言っているんだ」

殺生谷以降、冷静さを保つ技に磨きをかけてきた氷河は、瞬の慌てぶりとは対照的に、一見異様に落ち着いている。

「だ…って、紫龍が――」

反応らしい反応のない氷河の態度に接しているうちに、やがて瞬も、『平気だよ』だけで自分の意思が通じるはずがないことに気付いた。

「あの馬鹿がどうした」

「紫龍が――氷河が変に敵を求めてるのは、氷河が僕を――」
「俺がおまえを?」

赤面しながら瞬が氷河に告げた言葉は、
「氷河が僕に……あの……氷河が、僕を、あの……好きだからだって……」 
婉曲話法の手本にしたいような美辞だった。

「…………」

そして、瞬が婉曲話法の天才なら、氷河もまた自分を偽ることにかけては天才的だった。
彼は顔色ひとつ変えずに、抑揚のない口調で瞬に告げた。
「それは奴の誤解だ」

「え……? あ…あの……あの……そうなの?」

自分が誰かに好意を持たれていると一人勝手に思い込むことは、ある意味ひどく思い上がった行為である。
それ故に、それが相手に知られた時には激しい羞恥を誘うものだった。

「ご…ごめんなさい、あの……」
瞬は先程とは全く別の意味合いで赤面し、氷河に小さく頭を下げた。 

「いい、行け」
氷河が、瞬の思い込みなど歯牙にもかけていない様子で、瞬にその場を去れと促す。

「あの、ごめんなさい、氷河。ひどい誤解して」
瞬は、もう一度氷河に謝罪して、そして、彼の命じる通り、ラウンジを出ていこうとした。

「…………」

氷河は瞬の手がラウンジのドアにかかるのを、無言で見詰めていた。
引き止められるものなら引き止めて真実を告げたいと思う心を抑えるのに、彼は必死だった。



「瞬」

だから。
氷河が瞬の名を呼んだのは、氷河の意思ではなかった。
意思ではない何ものかが、氷河にその名を呼ばせたのである。






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