「騙すつもりじゃなかったの。でも……」

氷河に肩を抱きしめられると、やっと、叱られるのではないということがわかったのか、瞬は身体から力を抜いてしゃくりあげ始めた。

「僕、漢学より歌の方が好きで、でも兄様はそんなの、小野の家の男子がすることじゃないって言うし、だから女性ならいいのかって思って、勝手に……」

「小町という女性を作りあげた?」

こくりと頷く瞬を見て、氷河は一瞬あっけにとられた。

絶世の美女として、京の町を騒がせている小野小町。
それが、こんな小さな男の子の、和歌を発表するためのペンネームだったとは。

「なんだ、俺はてっきり、おまえが姉の振りをして、俺を騙しているのかと……あ、いや」
「ごめんなさい、その通りです。僕、氷河を騙してました」

氷河の腕の中で、瞬がますます身体を縮こまらせる。
臆病な子猫のようなその仕草に、氷河は微かに苦笑した。

「……じゃあ、俺の推察も間違っていたのか」
「え?」
「俺は、おまえが……俺を姉に渡したくないから、こんな茶番をしてくれているのだと思っていた」
「え」
「自惚れていたか」
「あ……いえ、あの…」

どうやらそれは、氷河の自惚れではなかったようだった。
朱色に染まってしまった瞬の耳朶を唇でなぞるようにして、氷河は瞬に囁いた。

「俺は約束通り、百夜おまえの許に通った。望みは叶えさせてもらうぞ」
「あ……でも」

一瞬強く抱きすくめられたかと思うと、そのまま床に肩を押しつけられ、瞬は溜め息のような声を洩らした。


自身の身体の重みで瞬を抑えつけながら、しかし、自分の胸の下で泣きそうな顔をしている瞬に、氷河は少しばかり不安になったのである。

瞬が百夜通いを言い出したのは、氷河に“小町”を諦めさせるため。
それと同時に、氷河に毎日小野の里を――自分の許を――訪れさせるための方便だったのだと、氷河は察していたのである。
その九十九夜の果てに訪れるかもしれない百夜目を、瞬は全く考えてもいなかったのだろうか。




「氷河……あっち、行って……」

瞬が、床の上に投げ出された細い腕をあらぬ方向にのばして、切なげな声を洩らす。

「瞬?」
「あ、違うの。猫の氷河に……あの……見られたくない」

「ああ」
頬を真っ赤に染めて告げる瞬に、氷河はほっと安堵の息を洩らした。

百夜目にして、やっと手に入れられる衣通姫。
衣越しにもこれほど魅惑的な瞬の心と身体とが、衣をとったらどれほど眩しく、どれほどの陶酔をもたらしてくれることだろう。

毎日一里の道を通わずに済むように、氷河は明朝には、瞬を深草の自分の邸にさらっていくつもりでいた。
そうして、“小野小町”は、この世から消え失せることになるのだ。



「そのうち、びっくりして、どこかに行くさ」

桜の色をした瞬の瞼に口付けながら、氷河は、瞬の狩衣の帯に手をかけた。






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