「あん時は、俺も、氷河の様子がいつもとちょっと違うとは思ったんだよな」
星矢の口調には、誘拐を誘拐と気付かなかったことを反省する色も、仲間の暴挙を責める色もなかった。
要するに、彼は、自分の迂闊さを反省してもいないし、氷河が悪事を働いたという意識も抱いていないのだろう。

「いつもむっつりして瞬を見ているだけの男が、珍しく自分から瞬に近寄っていって、飴玉を差し出して」
紫龍も、星矢に以下同文。


星矢が言うには、瞬は差し出された飴を受け取り、にっこり笑って、
『くれるの? ありがとう』
と答えたのだそうだった。

氷河は無言で頷き、
『もっとやるから来い』
と告げた。
告げられた瞬は氷河の後をついていき、瞬が連れていかれた先は、たまたま城戸邸のヘリポートに来ていたジェットヘリの中だった――らしい。


「氷河の奴、免許も持ってないのに、無断でヘリを飛ばしやがったんだぜ」

「〜〜〜〜っっっ !!!! 」

奇天烈なようで、その実、非常にありふれた誘拐シーン。
飴玉一つに釣られていったという弟の話を聞かされて、一輝は言葉も失いかけていた。

「安心しろ。沙織さんのおかげで、各国に連絡は行き届いてたから、領空侵犯で撃墜されたりはしなかった」
「シベリアに着地したらしいぜ。よく迷わずに行けたもんだ。帰巣本能ってやつかな」


そろそろ疲れを隠しきれなくなった一輝だったが、ここでへこたれてもいられない。
彼は最後の気力を振り絞った。
「なぜ、連れ戻しに行かんのだっ !! 」

「この時期のシベリアは寒いじゃんか」
星矢の答えに、一輝の疲れは倍増するばかりだったが。

「おまえら、瞬が心配じゃないのかっ!」
「氷河は瞬に無体なことはできないだろう」
「この拉致が無体でなくて何だと言うんだっ!」

「まあ、落ち着けよ、一輝。それに、これは拉致じゃないぜ。氷河は瞬を無理矢理連れてったわけじゃないからな」
紫龍ならともかく、星矢になだめられてしまっては一輝もおしまいである。

「これが悠長に構えていられるかっ! 俺は瞬の兄だぞ! 弟が訳のわからん野郎に拉致――いや、誘拐か。誘拐されたのに、落ち着いてられるかっ !! 」
それでもちゃんと言い直すあたり、一輝も律儀と言えば律儀である。

「まあ、おまえが兄として瞬を心配する気持ちはよくわかるが、氷河の気持ちも察してやれ」

誘拐犯の心情を察する義務も義理も、一輝にはない。
もしかすると、紫龍と星矢は、この誘拐劇を誘拐劇と知っていて氷河に協力したか、もしくは故意に気付かない振りをしたのではないかという疑念が、一輝の胸には生まれつつあった。
その疑念を隠しもせず、二人の呑気な仲間を睨みつける。

最愛の弟を誘拐されて疑心暗鬼に陥っている一輝を見やり、紫龍は、細く嘆息した。

「まあ……おまえや星矢は南国育ちだからわかるまいが、北国の――冬場、雪に閉ざされる国で生きている人間が春を待ち焦がれる気持ちの強さは、並大抵のものじゃないぞ。なにしろ――春が来ないと死ぬんだからな」

唐突。
事情を知らなければ唐突としか思えない紫龍のその言葉を唐突と思う者は、だが、その場には一人もいなかった。

一輝は、紫龍が何を言わんとしているのかはわかっていたが、あえてわからない振りをした。



氷河がいつも瞬を見てることは、一輝もよく知っていた。
瞬にそれとなく告げたこともある。

瞬は、
『平気だよ。慣れたから』
微笑って、そう答えた。

弟のその答えが、一輝は、非常に、実に、かなり、大層、不愉快だったのである。




「心配はいらん。瞬は氷河の大事な春だ。傷付けるようなことは絶対にしないさ」

幼い頃から、氷河にとって、瞬が春の象徴だったことは――暖かい再生の息吹、雪に閉ざされる辛い冬の果てにやってくる緑の大地そのものだったということは――わかっている。
それは、星矢ほどの注意力しか持っていない人間にも――つまりは星矢でも――気付くことのできる大事実だった。


そして、だからこそ、一輝は、氷河が信用できなかったのだ。






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