僕たちは、グラード財団総帥の私邸である城戸邸で暮らしている。
現在のグラード財団総帥は十代の少女で――名前は城戸沙織さん――、彼女は、身寄りのない者たちを引き取って生活の場を与えてくれている。
まあ、総帥個人が営んでいる奨学生制度みたいなものだ。

表向きはそういうことになっている。
事実は――ちょっと違うけど。

僕たちの商売は正義の味方といったところで、特に敵のお出ましがない時には、総帥のボディガードなんかをしている。
この半年ほど、商売の相手が出現しなくて――それは、とてもいいことだけど――僕は少し退屈しかけていた。

だから、僕は、この気の毒な人が、誰かを信じられるようになるまで――あるいは、記憶を取り戻すまで――誠心誠意世話してあげようと思ったんだ。
それは、敵と闘うことなんかより、ずっと楽しい仕事になるように思えたし。

でも。


「あ、じゃあ、お部屋に案内しますね。何か手伝えることがあったら――」
と言いかけてから、僕は彼が手ぶらでいることに気付いた。

生活に必要なものは、あとで沙織さんが届けてくれることになっているんだろうけど、それにしても手ぶらとは。

普通は、何かを持っているものじゃないだろうか。
お金で買い揃えることのできない何かを、一つくらいは。
初めて城戸邸に来た時、僕は読み古した一冊の絵本を抱えていた。
僕にとって、その絵本はとても大切なものだった。

なのに、彼は、そんなものすら持っている様子がない。

「……ない」

突然、低い声が城戸邸の玄関ホールに響く。
それは記憶を失った気の毒な人の声で、自分の考えていることを見透かされたのかと、一瞬、僕は驚いた。

「え?」
「おまえに手伝ってもらうことなどない」
「…………」

存外に、彼はちゃんとした言葉を話した。
言語中枢の損傷というのは、そんなにひどいものではなかったらしい。

「あ、でも、何か……初めての場所でわからないことも……」

青い瞳が、まるで僕を憎んでいるように睨みつける。

「お……落ち着いたら、この邸の中の案内もしたいですし」
「いらん」

「…………」

取りつく島もないというのは、まさにこのこと。


「どうだ、瞬? うまくやっていけそうか?」
僕と彼のやりとりを見て、そういうことを尋ねてこれる星矢に、僕は感心してしまった。


「……なんだか……怖いくらい苛立ってるみたいだけど」
「あー。そりゃまあ、いらいらするだろ。自分のこと何にも思い出せないんだから。大目に見てやってくれよ。根は悪い奴じゃないから」


そうだった。
彼は何も憶えていないんだ。
自分が何ものなのかも憶えていなくて、足許も覚束ない気分でいるのに、他人の心証なんかを気にかけている余裕があるはずがない。

「うん、そうだよね。不安でいるんだよね、きっと」
「俺たち、沙織さんと明日から半月くらい聖域に行くことになってるんだ。しばらく、世話してやってくれよ。おまえなら大丈夫さ」

星矢は、彼らしく鷹揚に――つまりは、実にお気楽かつ無責任に――笑って、そう言った。






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