「瞬……」


「瞬……!」


氷河に名を呼ばれて、瞬は、はっと我に返った。

「あ、なに?」

思い出に、浸ってしまっていたらしい。


「何を考えていた」
瞬が、自分の存在を忘れている僅かな時間も許せないらしい氷河の口調には、少々の怒気が含まれていた。

「……わかってるから、声かけたくせに」

「…………」

瞬の言う通りだったのだろう。
氷河は、一瞬言葉を詰まらせて、それから、抑揚のない声でぽつりと言った。
「考えても仕様がない」

「でも、忘れられることじゃないし、忘れる必要もないし……後ろ向きになってるわけじゃないんだよ、僕」

瞬だけではなく、星矢だけではなく、氷河にも、後悔や、失くしたものや、消えることのない傷はたくさんある。
長い時間をかけても癒されず、代わりの何かで埋めることもできない、失われた部分。
二度と再び自分の手で触れることができないが故に、それらは美しく、哀しいのだ。


「わかっている。ただの焼きもちだ」
憮然とした表情で、氷河が答える。

そう告げる氷河に、瞬は我知らず口許をほころばせた。
「……いつの間にか大人になったんだね、氷河。そんなこと、自分から認めるなんて」

“心配”を“焼きもち”と言い換えて自分を気遣ってくれる氷河が、瞬は嬉しかった。


「氷河はコドモだよー。一人じゃ眠れないんだ」
氷河と瞬の会話に入っていけないのが不愉快だったらしい。
星矢が、少し怒ったような口調で、二人の間に割って入ってくる。

星矢は、夜はもちろん、食卓でのささやかな会話でも、瞬を氷河に独り占めされるのが、とにかく気に入らないらしかった。


「じゃあ、僕も子供なのかな、星矢」

からかうように瞬が尋ねると、星矢は至極複雑な顔になった。
星矢が自分と同じレベルに置いておきたい相手は、あくまで氷河だけらしい。

20歳以上年上の氷河に本気で対抗意識を燃やしている星矢の背伸びが可愛くて、瞬はそれ以上星矢をからかうのはやめることにした。

「この家じゃ、星矢がいちばん大人だね。じゃ、一人でお着替えできるかな?」
「うん」
「ごはん食べたら、歯をみがいて、着替えてきて。寒くないようなカッコしてきてね」

「はーい」
素直な良い子の返事をすると、星矢は、氷河に対抗して変えてもらった大人用の椅子から、ぴょんと飛び降りた。

そして、自室に戻り、すべきことを済ませると、氷河と瞬を二人きりにしてはおけないと言わんばかりの素早さで、すぐに瞬の許に戻ってきる。

結局、この家でいちばん準備に手間取る子供は、やはり氷河だった。






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