エーゲ海を挟んだアナトリア地方で繁栄しているトロイは、ギリシャ諸ポリスの目の敵だった。 それでも、微妙なバランスの上に、かろうじて両国の平和は保たれていた。 その平和が崩れ去ろうとしている。 トロイの第二王子パリスが、世界一の美女の誉れも高いスパルタ王妃・ヘレンをさらってきたために。 「ヘクトルも、今頃は、女好きの弟の不始末に苦虫を噛み潰していることだろう」 パリスと共にスパルタに赴き、先に帰国していた友人のアエネアスから、パリスがヘレンを連れ帰るという知らせを聞いた時、ヒョウガはトロイは終わりだと思った。 「それほど大きな戦になるの。政治的には何の力もない一人の女性のせいで?」 「女をさらわれたことは、ただの口実だ。ミケーネのアガメムノンは、トロイの富を我がものにすべく、虎視眈々とその機会を窺っていた。パリスはその業突張りに絶好の機会を与えてしまったんだ。ミケーネの王には、パリス様々といったところだろうな」 「…………」 わざと軽口めかして語られるヒョウガの言葉は、しかし、シュンの瞳を曇らせるのに十分な力を持っていた。 「トロイはいい国だったがな。外国人にも門戸を開き、手柄を立てれば、俺みたいな訳ありの流れ者にも、地位と金をくれる」 「ヒョウガは、戦で手柄を立てて、今の地位を手に入れた。新たな戦は喜ぶべきことではないの?」 「俺がしてきたのは、トロイの周辺の部族をこの国の勢力に組み入れるための“説得”だ。戦じゃない。争うことをやめてトロイの一部になった各部族は、それで逆に平和と富を手に入れた。しかし、トロイとギリシャの戦いは、互いの国力を疲弊するだけの消耗戦になるだろう。何の益もない。無意味な戦は──」 ヒョウガは、そこで、いったん言葉を区切った。 それから、シュンを見詰め、尋ねてくる。 「嫌いだろう?」 シュンは、ヒョウガの言葉を否定できなかった。 ヒョウガの“説得”をシュンが黙認してきたのも、それが人の命が失われることのない戦いだからだった。 頭領同士の一騎打ちは、部下の命を失わずに戦いを終えるための便宜である。 ヒョウガはいつも勝って帰ってきたが、敵対部族の頭領の命を奪ったことは一度もない。 「トロイは多分負ける。名誉や恩義のためにここに残って戦って、おまえを危険な目に合わせるわけにはいかない。まして、敵は──」 敵はギリシャなのだ。 それは、ヒョウガとシュンの故国の名前だった。 「僕は……」 「おまえは?」 ヒョウガがシュンに手を差し延べる。 その手を取ろうとして、ヒョウガのいる寝台の側に歩み寄ったシュンは、そのままヒョウガの膝の上に座らされ、抱きしめられた。 すぐに、身に着けていたものを引き剥がされる。 ヒョウガは、そして、シュンを寝台の上に引き倒し、その上に覆いかぶさっていった。 真っ青な空と海を映す窓から入り込んできた微風が、シュンの裸身を撫で、シュンの喘ぎ声を載せて、また海の方に消えていく。 「あ……」 エーゲ海を見おろすトロイの城壁の内の高台にある石造りの館。 この館は、ヒョウガがシュンのために手に入れた館だった。 友人のアエネアスの誘いを受け、ヒョウガは故国を捨て、シュンだけを連れて、無一物でこのトロイにやってきた。 兵を一人も失わずにトロイの領土と友国を増やした代償として、この館を手に入れた時には、ここが自分たちの安住の地になるのだろうと思ったものだった。 が──。 「ヒョウガのしたいようにしていいんだよ。僕の望みは、ヒョウガの側にいることだけだから。それがトロイだってギリシャだって、どこか地の果てでも──僕はヒョウガについていくから」 「俺のしたいことは、おまえが欲しくなった時にいつも、安全な場所で、こうしておまえを抱きしめられることだけだ」 幾度交合を重ねても、その瞬間にはいつもためらいを隠さないシュンの身体を、陽光と海の照り返しのせいで白く光る寝台の上に開かせる。 ヒョウガの凝視に耐えかねたシュンは、横を向いて固く目を閉じてしまった。 ヒョウガがその中に身体を進めると、シュンが、それまで敷き布に押しつけていた白い指を、すぐにヒョウガの背にまわしてくる。 決して優しく快いばかりではないはずの交合を、シュンは、今日も、その細い身体で必死に受け入れようとしていた。 ヒョウガは、時折、この白い身体をエーゲ海の水面のように穏やかに愛することができたらいいのにと思う。 シュンの身体を荒々しく揺さぶり、果てた後には、特に。 快楽を貪り尽くし満足した男の横で、乱れた息を懸命に整えようとしているシュンの様子は、可愛らしくもあったが、痛ましくもあったのだ。 ヒョウガが、その凪いだ水面のように穏やかに愛したいと望んだ海に、嵐がやってこようとしていた。 |