もちろん、それは夢だった。
当然だ。
僕が兄さんを倒す──殺す──どんな理由がある?

それにしても、それはとてつもない悪夢で、その悪夢の続きを見ることを拒絶した僕は、この家で初めて氷河に気付いた時と同じ部屋の布団の上に跳ね起きていた。
悪夢の余韻が、僕の肩を大きく上下させている。

ずきずきと、こめかみが痛んだ。
庭に面した障子の向こうに、ざわざわと揺れる竹の影。
今夜は月が赤いのか、黒いはずの影が赤味を帯びている。

僕はぞっとして──まるで、その影が、僕を責めているようだったから──覚束ない足取りで、その場に立ち上がった。
隣りの部屋にいる氷河の許に行くために。

この見知らぬ家で、僕と氷河は別の部屋で眠っていた。
僕が、この家にいる僕を見い出した あの夜から。
『どうして同じ部屋じゃいけないの?』
と、僕はもちろん氷河に尋ねた。
氷河はその時は、
『そんなことをしたら、療養にならないだろう』
と答えた。

でも、多分、氷河は、僕が僕を取り戻す以前は、毎晩のように僕を抱いていたはずだ。
でなかったら、僕は──氷河の愛撫に慣れた僕の身体は──別の意味で狂っていたと思う。
氷河がなぜ そんな不自然な嘘や言い訳を言うのか、僕は不審に思ったけど、でも、氷河を問い詰めたりはしなかった。
病人に対する旺盛な性欲を、氷河が非と思っているからなのだろうと考えて。

でも、今は、そんなことはどうでもいい。
悪夢を忘れるために、今の僕には氷河の手が必要だった。

時刻は既に“明日”になっていただろう。
でも、氷河はまだ起きているらしく、室内の灯りが、文机の前に座っている氷河の陰を障子に映し出していた。
その影が血の色をしていないことに安堵して、僕は、入室の許しも得ずに、氷河の部屋に飛び込んだ。

「瞬?」
文机に手を置いていた氷河が、身体の向きを変えて、突然の深夜の訪問者に驚いたように僕を見る。
もし氷河が和服でも着ていたなら、金色の髪をして座卓の前に正座している彼は、日本かぶれの外国人にでも見えていたかもしれない。
ありふれた白いYシャツを身に着けている氷河は、そのせいでかえって日本人らしく見えた。

「兄さんが死んでる夢を見た……」
僕は、抑揚のない声でそう言って、氷河の胸に倒れ込むように抱きついた。
言ってしまってから、すぐに、ただ『怖い夢を見た』とだけ言えばよかったと後悔した。
氷河の前で兄さんの話を持ち出すなんて、氷河を不機嫌にするだけなのに。

でも、なぜだか氷河は、以前のように子供じみた妬心を表すことはせずに、すぐに僕を抱きしめてくれた。
自分の背にまわされた氷河の腕にかえって驚いてしまった僕に、氷河は、
「思い出すな。思い出さないでくれ」
と懇願するように言った。

まるで、僕の見た悪い夢の内容を知っているみたいに。
僕に『目を開けてくれ』と言っていたあの唇が、今は『思い出すな』と告げる。
氷河の言葉への不審も悪夢への恐怖も、けれどすぐに氷河の愛撫が忘れさせてくれた。

浴衣っていうのは、とても便利な衣類だ。
どこからでも氷河の手の侵入を許し、着衣のままでもすぐに交われる状態になり、帯を解けば、それは敷き布の代わりにもなる。
すぐ横に布団が敷いてあるのに、僕たちは畳の上で交わった。
開け放たれたままの障子の向こうでは、庭の竹林が風を受けて騒いでいる。

僕は、そして、思い出した。
氷河にどんなに激しく貫かれても、僕が僕を取り戻すことがなかった訳を。

あの夜まで、氷河はずっと、
『目を閉じていてくれ』
と言って、僕を犯していたんだ。






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