氷河の主君は、何事にも合理的な人物だった。
将軍家と大名家の、いわゆる政治的思惑で娶った正室とも、愛しまないよりは愛しんだ方がいいという主張のもと、周囲の成り行きに流されてではなく、意思的に睦んでいた。
女色にうつつをぬかすことよりも、藩主としての勤めを優先させる人物であったため、奥の乱れもない。
女好きなわけではないが、嫌いなわけでもなく、奥での正室との琴瑟相和した様子は、氷河も漏れ聞いていた。
上総介にその気があるなどという話を、氷河は、これまでただの一度も聞いたことがなかったのである。

「しかし、殿には、衆道の気は──」
「これまでは全く興味がなかったのだがな。しかし、あの可愛らしい姿を見せられては、その気のない者にもその気が湧いてくるというものだ。流行りだしな。実を言うと、今時、女にばかり血道をあげているのは無粋なことと、江戸では散々馬鹿にされてまいった」
「…………」

流行りで瞬に一目惚れされてはかなわない──というのが、氷河の本音だった。
無論、その手の趣味が、昨今の流行りだということは、氷河も知っている。
義兄弟の仇を討ち取って江戸中の評判をとった庄内藩の片岡平八郎、兄分の仇を討ち、肥前平戸6万石に召し抱えられた柴崎伝兵衛、伊丹右京と母川采女、例を挙げれば、枚挙にいとまがない。
赤穂浪士討ち入り事件の元々の原因も、浅野内匠頭の小姓に吉良上野介が横恋慕したためだという風聞があるほどなのだ。

氷河は、ふいに、嫌な予感に襲われたのである。
上総介が、氷河に『内々に頼みたい仕事』というのは、もしや、衆道の橋渡しなのではないか──と。
が、すぐに、それなら瞬の父である家老に直接言った方が早いはずだ──と思い直す。

いったい上総介は自分に何を命じようとしているのか──。
混乱し懊悩している氷河に、彼の主君は、至極気楽そうに言葉を続けてみせた。
「まあ、要するに、私はその道は初めてだ。無論、瞬の方でもそうだろう。清潔そうな様子をしているし、あの顔では言い寄る者も少なくはなかったろうが、結構な手練てだれと聞く」

上総介の推察は的を射ていた。
確かに、道場でも藩校でも、瞬に気のある素振りを見せる輩は多かった。
実際に言い寄った者も幾人かはいたのだが、瞬はそのすべてをきっぱりと拒絶していたし、
その上──その上、氷河が、できる限り、その手の輩から瞬を守ってきたのだ。

「朝霧のおほに相見し人故に 命死ぬべく恋ひわたるかも──というところだな。私のこの思いは断ち難い。かといって、主君の立場をかさにきて無理強いをするのは、意に染まぬ」

柄にもない万葉の恋歌など持ち出すあたり、上総介はどうやら本気らしい。
これが同輩や後輩なら──否、上の役職にいる者でも主君でさえなければ──どうとでも撃退することはできる。
実際、これまで、氷河はそれをしてきた。

しかし、今回ばかりは相手が悪すぎる。
自分と同じ家臣ではなく、家臣として命を賭して忠義を示すべき主君が、瞬に興味を持ってしまった──のだ。

どうすれば、波風を立てずに上総介の気持ちを変えることができるかと、氷河は考えを巡らせ始めた。
しかし、氷河の主君は、氷河の思惑になど気付いた様子もなく、彼の家臣にとんでもないことを命じてきたのである。

「私の不慣れのせいで、あの細い身体に無体はしたくはない。そこでだ。その方、あの子にそちらの方を仕込んでくれ」
「…………」

上総介の言葉を聞いて、氷河は唖然とした。
氷河の主君は、氷河に、瞬との橋渡しを頼むつもりは毛頭なく──瞬を我が物にすることは、彼の中では既に決定事項になってしまっている──らしかった。

「その上で、私の寝所にはべらせれば、初心者相手の面倒も起こらないだろう。その方は、瞬をその道に慣れさせ、やり方を教え、ついでに時々、教育の成果のほどを私に報告にくればよい。どうだ、なかなか役得な奉公であろう」

自分は英邁な主君に恵まれた──と、氷河はこれまで思っていた。
その主君に認められた我が身を、幸運な男だとも思っていた。
馬鹿でも無能でも大名家の長子に生まれた者がその地位を世襲し、家臣は脱藩・浪人でもしない限り、仕える主君を選ぶことのできない武家社会の中で、それは、望んで得られる幸運ではない。

よもや己れの主君が恋敵になることなど、つい昨日までの氷河には、思いもよらないことだったのだ。
その上、何も知らない瞬に、その道のことを仕込めとは。
そして、その瞬を差し出せとは。
合理的にも、程があるというものである。

「し……仕込むも何も、私はそちらの方は全く不調法で」
答える声が、我知らず震える。
上総介は、不愉快そうに顔を歪めた。

「無粋な。江戸では、その道は大流行りなのだぞ」
「私は、そういったことより、別のことで、殿と藩に忠義を示したく存じあげます」

そんな役得になど、預かりたくもない。
氷河は、主君の命令をきっぱりと拒絶した。──つもりだった。




**「朝霧の〜」 万葉集。笠女郎かさのいらつめ
『朝霧の中で会ったように、ほんの一瞬だけ垣間見たあなたに、私は死ぬほど恋焦がれています』



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