氷河は、そして、武士である前に、一人の人間だった。

「逃げよう」
それは、呟くような声だったが、ぼんやりとした思いつきで言った言葉ではなかった。

「主命を利用していたのは俺も同じだ。俺は、家の力に頼らず自分の才だけでここまできたと思いあがって、思いあがると同時に、守るべき家を持たないことに卑屈になって、他の大事なことを見ようとしていなかった。俺は──」

この言葉を、最初に、上総介と瞬とに告げていたならば、事態は今とは違ったものになっていたのだろうか。
悔やんでも悔やみきれない、そして、何よりも大事なことを、氷河は今頃になってやっと、言葉にした。
「俺はずっとおまえが好きだったんだ」

あまりに遅すぎたその言葉を、だが、瞬は新しい涙と共に喜んでくれた。
「僕、その言葉を聞けただけで……。武士は死を恐れてはいけないって教えられてきて、だから、僕、死ぬことは恐くはないの。ただ、氷河に嫌われたまま死ぬのは悲しくて……よかった……」

氷河は初めて主命に背いて──そうせずにいることができなくて──、白い衣装を身に着けた瞬の肩を抱きしめた。
抱きしめたままで、尋ねる。

「武士としてのおまえ自身の名誉と、俺と、どっちが大事だ」
命を賭して、瞬は既にその答えを氷河に示していた。
瞬は、ただ、
「僕は、武士になんか生まれたくなかった……!」
そう叫んで、氷河に強くしがみついてきた。






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