氷河は名門藤原北家の傍流に当たる小家の総領息子だった。
氷上川継の乱に連座したとして左大臣を罷免された藤原魚名の流れを組む彼の家は、藤原一門内での影響力はほとんどない。
所有する荘園も僅かなもので、経済力という点では、藤原嫡流に一段も二段も劣る。
その小家が、それでも一門の内と認められていたのは、所領の広さや地位の故ではなく、武芸に優れた郎党いわゆる侍を多く蓄えていたため――つまり、武力を持っていたからだった。

無論、侍は、有力貴族に雇われる立場にあり、下人も同様の扱いを受けていたが、それは公家には必要なものである。
武力の貸し出しで収入を得るという行為は尊敬されるものではなく――実際に軽んじられてはいたのだが――武力を有していることが小家にすぎない氷河の家を立ち行かせているのも、紛う方なき事実だった。

そんな小家の跡取りに過ぎない氷河に、藤原氏嫡流の姫が許婚いいなずけとして与えられたのは、彼の祖父の強引さの故だった。

氷河がまだ3歳だった時、藤原家嫡流・藤原忠実の荘園での紛争の鎮圧を依頼された際、彼の祖父は、その代価として、金品ではなく嫡流の姫を孫の妻に所望したのである。
当時、藤原宗家には氷河に歳の合う姫はいなかったのだが、忠実の長子・関白忠通の北の方が懐妊中だった。
その北の方の腹の子が姫だったなら孫の嫁にもらい、男子だったなら報酬はいらないと、氷河の祖父は賭けのような話を宗家に持ちかけたのである。

藤原一門にとって、姫は財産である。
美貌の姫に恵まれれば、それを天皇や上皇の后にして、朝廷に外戚としての影響力を及ぼすことができる――かもしれない。
身内の――しかも傍系の小家に嫁がせて、その可能性を無にすることには、忠実も躊躇を覚えたことだろう。

だが、事態は切迫しており、金や土地はあっても信頼のおける有力な武士団を持たなかった忠実は、氷河の祖父の申し出を受けるしかなかったのである。
可能性は可能性に過ぎず、また必ずしも北の方が姫を産むとは限らない。後日、金品や土地で誤魔化すこともできるかもしれない――忠実は、そう考えたのかもしれなかった。

氷河の祖父は、その点、抜かりはなかった。
彼は、北の方の産み月が近づくと、警護のためと理由をつけて藤原宗家に乗り込み、当主と生まれた赤子の初対面の場には、未来の舅として同席を要求したのである。

「ご覧くださいませ。花のようにお美しい――」
そして、生まれたばかりの赤子を抱いた乳母が得意げにその場に現れるや否や、彼は、
「まことに花のように美しい姫だ。生まれた時からこれでは、成長のあかつきには、我が孫はさぞかし苦労のし甲斐のある苦労をすることになるだろう。妙な虫のつかぬよう、孫にはよくよく注意するよう申し聞かせることにする」
そう言って、乳母の手から赤子を奪い取ってしまったのである。

そのまま藤原宗家の屋敷を出ていく氷河の祖父の後を追いかけたのは、抱きしめていた姫をその手から奪われてしまった乳母一人だけ。
そのあまりの早業に、姫の父母も家の郎党も、刀をいた家人たちに囲まれて門を出ていく氷河の祖父を追いかけることすら思いつかず、ただ呆然とするだけだった。






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