数百年間の確執は容易に消えることはなく、それ以後も伊賀の者と甲賀の者の小競り合いは幾度か起こったが、二つの忍びの集団は徐々に協力体制を敷いていくことになる。 そして、その二つは、氷河と瞬が睦み合うようにゆっくりと溶け合っていった。 それから時代が下り、太平の世の継続が確実になると、独自の共和制を敷いていた伊賀・甲賀の忍びたちはやがて完全に徳川幕藩体制下に組み込まれ、その独立性を失っていくことになる。 彼等は、幕府や各地の大名に仕えることになり、伊賀甲賀の別は さほど重要なことではなくなっていった。 ゆるやかに、伊賀は甲賀に、甲賀は伊賀に、そして、忍びは表の世界に 融合していったのである。 延宝四年(1676)、伊賀の忍びであった藤林保武が、伊賀・甲賀二つの流れの秘伝を記し、後に忍術書の最高峰と言われる書を著わす。 その書に曰く、 『 抜群の功を収めても、忍びには、音もなく匂いもなく、智名もなく勇名もない。 余人には その功績は天地の自然が為したもののように見えることだろう。 天地の春はのどかで、草木は生長し、花が咲く。夏は暑く草木は生い茂り、秋は涼しく草木は紅葉し、やがて落ちる。冬は寒く、雪・霜が降り、草木は枯れて根に還る。 これらのことを行っているのが誰なのか、知る者はない 』 藤林保武は、この書を、「天下の川はことごとく大海に流入し、一つの大きなものになる」という意をもって、『万川集海』と名付けている。 終
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