他の展示品に先んじて故国に帰った石像は、恋人の手の側で大人しくなってくれた――との知らせが瞬たちにもたらされたのは、それから5日後のことだった。
瞬は心を安んじ、それと同時に、ひどく切ない思いを味わうことになったのである。
自分だけが氷河の腕に抱きしめられ、その瞳を見詰め、見詰められ、口付けを受けることのできる現実に 罪悪感のようなものを感じて――。

「何はともあれ、あの像がおまえを追いかけてきたんじゃなくてよかった」
「僕が盗んできたんじゃなくてよかったと思ってるくせに」
「あの像がおまえにそこまでさせていたら、俺が粉々に砕いてやっていたさ」
「歴史的な文化遺産だよ」
「形あるものは、いつかは壊れることになっている」
だからといって、焼きもちで壊されてしまってはたまらない。
そして、自分だけが幸福でいることに罪悪感を覚えても、瞬は氷河の腕を我が身から引きはがしてしまうことはできなかった。

「……人間もだね」
氷河の耳許に唇を寄せて囁き、瞬は彼の背に腕をまわしていった。
その輪郭は同じでも、氷河の身体はあの石の像とは全く違う温もりを有している。
「もうちょっと近くで見ていたかったんだけど……」
歴史的文化遺産なら 人前で穴があくほど見詰めることもできるが、相手が生身の人間となると、そうはいかない。
氷河に密やかな鑑賞の楽しみを知られてしまった今となっては、真夜中の氷河鑑賞も もうできなくなるだろう。
そんなことをしたら、勘のいい氷河は いつ目覚めるかわかったものではない。
目覚めた彼に何を言われるか わかったものではない。
瞬は、それが残念でならなかった。

「そんなに見たいのなら、俺があの像と同じポーズをとってやろうか」
瞬の頬に押し当てられていた氷河の唇が、瞬の心を見透かしたように、突然そんなことを言い出す。
「え……でも……」
「おまえの望みとあらば、裸で突っ立ってやるくらいのことは何度でもしてやるぞ」
瞬が返事をためらっているうちに すっかりその気になった氷河が、ベッドから下りようとして、瞬の上から身体をどかす。
見たい気持ちがなかったと言えば、それは嘘になるのだが、とあることに気付いた瞬は、慌てて氷河を引き止めた。

「や……やっぱり、やめて」
「なんでだ。おまえの希望通り、俺はどんなポーズでも――」
「立像は見たいけど、そんなとこまで立たせなくてもいいってば!」
頬を真っ赤に染めて怒鳴り声をあげた瞬に、氷河は白々しいほど澄ました顔と声を向けてきた。
「おまえに見られることがわかっているのに、これ・・がおとなしくしているはずがないだろう」
「だからいいっ!」
「遠慮しなくてもいいのに。そのあとでちゃんとこれ・・の相手をしてくれるのなら、俺は少しの間くらい我慢するぞ」
「いいから、ここに来て! 僕の隣りで大人しくしててっ」
やはり氷河は、本気なのか冗談なのか、善意の人なのか悪意の人なのかがわからない。
こういう得体の知れないものには大人しくしていてもらうのが いちばんいいと、瞬は思ったのである。

せっかく張り切っていた出鼻を挫かれた氷河が、いかにも不承不承といったていで――それも本気なのかどうかは怪しかったが―― 一度は出ようとしたベッドの中に戻ってくる。
もちろん彼が戻った場所は、瞬の隣りではなく瞬の“上”だった。
そして彼は、瞬の身体の線を手の平でなぞり、
「おまえが腕だけでなくてよかった」
と嬉しそうに言った。

そんな氷河に、唇を突いて洩れそうになる溜め息を無理に抑えて、瞬は小さく呟いたのである。
「彼の対の像が壊れてなくて、身体も見付かればいいのに……」
と。
人間は“幸福になれないこと”に罪悪感を覚えるものだが、“幸福でいること”にも同様に罪悪感を覚えるものらしい。
世界中のすべての人々が――心を持つすべてのものたちが――幸福になってくれない限り、それは人の上から取り除かれることのない感情なのかもしれなかった。

あの像が恋人に巡り会えればいい――という願いは、既に実現の可能性の失われた願いなのだろうことが、悲しいことに瞬にはわかってしまっていた。
もし彼の恋人の身体がどこかに現存しているのなら、彼の心と身体は その場所に向かって動くはずである。
だが、彼は、あの腕にだけ執心している。
おそらく、彼の恋人が現代に残したものは、あの腕だけなのだ――。

「形あるものはいつかは壊れるし、命あるものはいつかは死んでしまうし――僕たちがこうして、互いに生きて一緒にいられるのって、すごい奇跡なのかもしれないね」
「……そうだな」

こうして今、同じ時間に命があり、同じ場所に存在し、石ではなく温かい氷河の身体に触れていられることに感謝して、瞬は精一杯 自分のお気に入りを抱きしめた。






Fin.






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