パンアテナイア祭は、年に一度アテナイの国を挙げて盛大に催される女神礼賛のための一大行事である。
壮麗な行列を組んで街を練り歩き、最後に神殿にやってきて、国民の感謝の証である衣装ペプロスを神に捧げる。
神殿は、それとは別に月に2、3度、神事を執り行い、神官長と神官たちが神殿にやってくる民たちの前で女神への讃辞を呈することになっていた。
アテナイの国始まって以来の大事が起きたのは、パンアテナイア祭の直前の小神事の場においてだった。

いつもの通り、神殿には、国王と神官長、彼等に従う官吏と神官、有力市民たちが列席していた。
その他に、神殿の中に入りきれなかった国民たちが、神殿と王宮を結ぶ広い庭のあちこちで、神の慈悲に感謝する祈りを捧げている。
その儀式の最中に、神官長が祭壇に向かって捧げる神への讃辞を遮って、突然どこからともなく重々しい女性の声が神殿内に響いてきたのである。
どこから聞こえてくるのかわからない――しいて言うなら、天から聞こえてくる――その声は、ひどく厳かなものだった。
「私の愛するアテナイの民よ。そなたたちの敬愛と忠心を私は嬉しく思う。今年の私の祭りでは私を喜ばせるために、その証を示すことをせよ」
声は、アテナイの民にそう言った。

「アテナ?」
「アテナのお声か?」
ざわつき始めた神事の参列者たちに静まるように手で示し、神官長が姿なき女神に向かって問いかける。
「証とは、どのように?」
「パンアテナイア祭に、この国で最も清らかな者を私に捧げよ。その者の命と引き換えに、私はこののち千年の繁栄をこの国に約束しよう」
これまで彼女を慕う人々の敬意と親愛をしか求めることをしなかったアテナの、アテナイの国への初めての要求。
女神の求めるものが“人間”であることの意味を、神官長は――他のすべての者たちも――量りかねていた。

僅かに震えを帯びた声音で、神官長が再度神に問う。
「それは生け贄を捧げよとのお言葉ですか」
「清廉を尊ぶ私に、人間のうちで最も清らかな者を供物として捧げよということだ」
どう言葉を変えても、女神の要求の内容は変わらない。
アテナはアテナイの国に、人間の命を一つ捧げろと言っているのだ。

神の祝福への代償として女神アテナが求めるものは、彼女への忠心と彼女への親愛。
そう思っていたからこそ、ヒョウガはこの国の王として、人間でない者が人間の国の頂点に立つことを許してきたのである。
それが、突然のこの豹変。
ヒョウガの中では、これまで意識して抑えていた神というものへの反発心が 頭をもたげ始めていた。

「最も清らかな人間をどうやって見付ければいいんだ。その判断が神ならぬ身の人間にできるはずがない。その判断を誤ることは神への不敬になろう」
それでもまだ――女神の求める“清らかな人間”というのは、修辞を凝らした何かの比喩にすぎないことを期待して、ヒョウガは神の声に尋ねた。
が、女神は決して優雅な言葉の遊びを楽しんでいたわけではなかったらしい。
女神の言葉はその言葉通りで、他の意味を有してはいなかったのだ。
アテナは、アテナイの国王に彼女の答えを返してきた。

「その者を、そなたは知っているではないか。そなたのすぐ側にいる」
「シュンを !? 」
その名を口走ってしまってから、ヒョウガはすぐに自身の迂闊に気付いた。
その名を口にさえしなければ、知らぬ存ぜぬを通して空とぼけることもできたのに、ヒョウガは自らの軽率でアテナに奉げる者を指名してしまったのである。

「清らかな者の真紅の血。その血を我が神殿に流すことで、このアテナイの繁栄と栄光は永遠に約束されよう」
女神の求めているものを他の何かにすり替えることのできる言葉を捜しているヒョウガの上に、再度神の声が響いてくる。
そして、それがアテナの最後の言葉だった。
神の声は、それきり聞こえなくなった。






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