「この淫売神! どうあっても俺からシュンを奪おうとするか!」
まもなく、年に1度のパンアテナイア祭が始まる。
祭りの前の神殿は不穏な無音に包まれていた。
ヒョウガが誰に求められたわけでもないのに自分から神殿の広間に足を運んだのは、それが初めてのことだった。
これから多くの民に称えられるこの国の守護神に、ヒョウガは毒づかずにはいられなかったのである。
巨大な女神像の足元で悪口を吐く自分自身を、だが、ヒョウガはますます無力卑小なものと感じずにはいられなかった。

「僕が清らかなんじゃない。ヒョウガが清らかだから、僕を汚せないの」
誰もいないはずの早朝の神殿に、ふいにシュンの声が響いてくる。
振り返ったその場にシュンの姿を見い出したヒョウガは、なぜシュンがここにいるのかという疑念よりも、どうあっても汚すことができないものへの どうしようもない悲しみに支配されたのである。

「俺は清らかなんかじゃない。おまえが汚れればいいと思っている。身体も心も普通の人間と同じようになれば、おまえは死なずに済む。……おまえは、あんなことをされたというのに俺を憎まないのか」
「ヒョウガが僕を汚すためにどんなひどいことをしても、どんなひどいことを言っても――言葉は嘘をつけるけど、ヒョウガの瞳は嘘をつけない。ヒョウガはいつも悲しそうに苦しそうに僕を見詰めてた――」

シュンはどこまでも彼の幼馴染みを買いかぶっているらしい。
ヒョウガは左右に首を振った。
「俺がそれほど清らかな人間だというのなら、神への供物は俺でもいいことに――」
言いかけた自身の言葉に、ヒョウガは突然 万に一つの可能性を見い出したのである。
「――いいのか? 俺でも……」
ほとんど呟くように口にしたヒョウガの言葉に、
「よろしいですよ、あなたでも」
人ならぬ声の答えが返ってくる。
冷酷ともとれる神の言葉に、だが、ヒョウガは狂喜したのである。

「ならば、アテナイの国は、シュンの代わりにこの俺をおまえに供する」
これまで生きてきた時間の中で、今ほど神の慈悲を感じたことはない。
ヒョウガは一瞬間もためらわずに、アテナの神像に向かって言い放った。
「アテナイの国の王自らが、私に命を捧げるというのか? それは見事な心掛けだが――」

「ヒョウガっ、馬鹿なことを言い出すのはやめてっ!」
神の声を打ち消すように、シュンの悲痛な声が神殿内に木霊して、それが人間の発する声だということを、ヒョウガに知らしめる。
ヒョウガはその愛しい声の主に、心からの微笑を浮かべた。
この大切な命を守るためになら、失って惜しいものなどないと思う。

「国よりも国の民よりも、自分の恋を優先させる王など、この国に災いを呼ぶだけのものだろう。もともと俺は、平和な国の王などという商売ほど退屈なものはないと思っていたし、最後に王らしい仕事ができるのはなかなか気分がいい。国のために命を投げ出した王という名誉も手に入るだろうしな」
死後の名誉など、ヒョウガは本当は全く望んでいなかった。
彼が望むことはただ一つ。
「おまえは生きてくれ」
――それだけだったのだ。

「ヒョウガがいないのに、僕が生きてて何になるのっ」
シュンの悲鳴は悲痛そのものだったが、それはヒョウガの決意を翻す力を持ってはいなかった。
当然である。
それは、つい先刻までのヒョウガの心と同じものだったのだ。
「俺も同じことを思った。だからおまえを逃がそうとした。なのに おまえは逃げようとはしてくれなかったな」
「僕の命が、国の安泰の保障になるのなら……僕が死ぬことがヒョウガのためになると思ったんだよっ」
そんなこともわからないのかと責めてくるシュンに、ヒョウガは苦い笑みを返すことしかできなかったのである。
「それは、とんだ認識違いだったな」

それからヒョウガは女神の像を振り仰ぎ、おそらくは神に聞こえるように意識した よく響く声で神を賞賛した。
「それにしても、我が神アテナは実に慈悲深い。俺は神に対する偏見を捨てることにする」
「だめっ。アテナは僕をお望みだったんだから、僕に不都合がないのならヒョウガではなく僕が……僕を殺してっ!」
「シュン、往生際が悪いぞ」

こんな時に、神の前だからといって“いい子”でいられるものだろうか。
ヒョウガの、そしてアテナの意思を変えることができるのなら、シュンはいくらでも往生際の悪い人間になるつもりだった。
アテナが再び、そんなシュンを慰撫するように静かな声を神殿内に響かせる。
「王の見事な心掛けは賞賛に値し、アテナイの王には神への供物たる十分な資格があります。しかし残念なことに、そのような犠牲を私は望んでおりません」
「え……?」

アテナの声は、確かに広い神殿の広間に木霊しない、人ならぬ者の声だった。
その声が突然、昨日までとは全く違うことを言い出す。
シュンは神の豹変の意味がわからずに戸惑うばかりだった。
「なぜ、私がそのような犠牲を望むと思ったのです。悲しいこと」
「だって、神託が……。あれは確かに人間のものではなかったと――」
シュンが聞き、他の多くの者たちも、間違いなく神の声を聞いたのだ。
女神アテナに人間という捧げ物をしろと、神の声は要求してきた。

「あれは、アテナイの者たちが私を敬慕するあまり、愛をないがしろにしていることに機嫌を損ねた愛と美の女神が私を騙ったのです。詫びを言います。今の今まで彼女の力で、私はこの国に起こっていることに気付かずにいました。けれど、それが幸いしたらしく――愛のために命も投げ出すほどのあなたたちの激情に、彼女は満足したようです」
「愛と美の女神……?」
その神は人を堕落させるものとして、確かにアテナイでは少々軽視されている神だった。
「私は戦いの女神ですが、だからこそ平和の価値を知っています。それが愛で保たれるものだということも。ですから、あなたたちは――彼女の機嫌を損ねないためにも、無理に自分の心を抑え込むようなことはせずに愛し合いなさい。それが神の心に沿うことです」

年に一度のパンアテナイア祭の日の朝日が地上に姿を現す。
女神アテナの神殿の中にも、新しい1日の日差しが射し込み始めていた。
「これはアテナイの守護神であるパラス・アテナの言葉です。あなたたちが証人ですよ」

ヒョウガたちが神殿の入り口を振り返ると、そこには祭りの準備のために神殿にやってきた神官たちと、祭りの始まりを待ちきれずにアテナの許に駆けつけてきたらしい数十人の市民たちがいて、彼等は一様に、彼等の神の寛大に畏れ入った様子をしていた。
同時に、彼等は、粋な計らいをする彼等の女神を誇るように、明るく爽快な笑顔を浮かべていた。






【next】