翌日、氷河は、ノシの王子様の故郷の星であるところの伊勢越デパートに足を運んだ。
とはいえ、氷河は、そこでノシの王子様に出会えることを期待していたわけではなかった。
万一そこでノシの王子様との再会を果たしてしまったら、氷河は自分の狂気を再認識しないわけにはいかなくなる。
だから、彼は、決してそんなことを望んではいなかった。

氷河はただ、そこに行けば、彼が経験した奇妙な時間に決着をつけることができるのではないかと考えただけだったのである。
その決着が、どんなものなのか、どんなものであってほしいと自分が望んでいるのかは、彼自身にもわかっていなかったのだが。

中元とは、もともとは中国の道教から出た節日せちにちで、陰暦7月15日を指す名称である。
東京では新暦で7月15日前後、地方では陰暦で8月中旬に、世話になった人たちに“お中元”という名の贈り物を贈る。
どう考えても中元までには まだかなりの間があるというのに、伊勢越デパートには既に中元特設コーナーが設けられていて、しかも結構な人出だった。

平日の日中なせいか、陳列されている品々を熱心な目で見詰めているのは、中年の主婦層が中心である。
その中に混じって、“中元”の意味すら知らないような若いガイジンが、たった一人で特設コーナーをぶらぶらと徘徊している光景は いかにも異様で、そこでは、氷河は、どう見てもただの不審人物、もしくは歳のいった迷子だった。
周囲のご婦人方の奇異の目から逃れるために、氷河は、とりあえず、母親に頼まれて中元の品を選びにやってきた孝行息子を装うことにしたのである。
さすがにサラダオイルの詰め合わせが並んだ棚はやりすごし、氷河は、瞬の好みそうな紅茶と角砂糖の詰め合わせを購入することにした。

「お持ち帰りですか。お送りになられますか。おノシの方はいかがいたしましょう」
いかにもマニュアル通りの笑顔と口調で、いかにもマニュアル通りの質問を投げかけてくる中元コーナーの女性店員を、氷河は一個の人間とは感じにくかったし、自分が人間として扱われているように感じることもできなかった。
紙切れにすぎない あのノシの方が、よほど人間的だったと思う。

「持って帰る。ノシもつけてくれ」
「かしこまりました」
ロボットのように無感動な笑顔を浮かべた店員は、だが、有能な販売員ではあるらしい。
彼女は、氷河の目の前で 客の選んだ品物をてきぱきと包装し、その上にノシ紙を貼るべく、カウンターの端に置かれていたノシの束に手を伸ばした。
束のいちばん上の一枚を手に取り、そのノシの右端が破けていることに気付いた彼女が、傷物であるノシを捨てようとする。

彼女の考えに気付いた氷河は、すぐに、
「それでいい」
と告げて、彼女が捨てようとしていたものを視線で示した。
「はい?」
ロボットが、初めて、流れるようだったその動作を滞らせる。
「そのノシがいい」
氷河の言葉に彼女は怪訝そうな顔になったが、さすがは日本有数の有名デパート、『お客様の意向に逆らってはならない』の社員教育が徹底されているらしく、彼女はすぐにロボットの笑顔に戻ると、氷河の希望を叶えてくれたのだった。

“お中元”の入ったデパートの紙袋を手に下げ持つのは、氷河はさすがに決まりが悪かった。
彼は、彼の選んだ中元の品を紙袋ごと小脇に抱え、
「おまえか?」
と、瞬への贈り物に尋ねてみたのだが、答えはもちろんなかった。
自分は正気に戻りかけているのかもしれないと、氷河はなぜか一抹の寂しさと共に思ったのである。






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