氷河の妬心を煽るような言動は厳に慎んだ方がよさそうだと、遅ればせではあったが 星矢が考え始めたその夜。
青銅聖闘士たちの溜まり場になっているラウンジに、女神アテナにしてグラード財団総帥であるところの城戸沙織が、前触れもなく姿を現した。
そして彼女は、その場にいる誰にも女神アテナの命令を拒絶する権利はないと確信している態度と口調で、明日から一ヶ月間星の子学園に手伝いに行くようにと、氷河と瞬に命じたのである。

「なんでまた、急に」
沙織に尋ねたのは、彼女からその指示を受けた二人ではなく星矢だった。
瞬はともかく、氷河が沙織の命令に異論を唱えなかったのは、アテナの登場にも関わらず、彼は瞬を見詰める作業に夢中だったからである。
要するに、氷河は沙織の話を聞いていなかったのだ。

そして、当の沙織は、それをむしろ好都合と考えているようだった。
沙織が、氷河にではなく星矢に、事情を説明する。
「ボランティア活動の一端よ。グラード財団ほどの巨大企業グループになるとね、会社が利益をあげてだけいることを、社会が認めてくれなくなるものなの。会社の利益を社会に還元する社会的義務が生じてくるというわけ。そして、企業は内外に向けてその事実を報告しなければならない。そのためのPRポスターとCM用の映像が要るの。それに氷河と瞬に出演してほしいのよ」

『立っているものは親でも使え』という、けしからぬ戯れ言が日本国には存在するが、沙織は『生きているものは聖闘士でも使え』というポリシーの持ち主であるらしい。
アテナの聖闘士の本来の仕事は何だったかと深い溜め息をついたのは、これまた氷河でも瞬でもなく、星矢その人だった。

「星の子学園に限らずWHOや赤十字には、グラード財団と私個人から定期的に寄付金を拠出しているから、それだけでも社会的義務は果たしていると言えるんだけど、お金を出してそれで『はい終わり』じゃ、何ていうか温かみが感じられないでしょう? お金だけじゃなく人的資源も提供して、我が社の社会的貢献は義務からではなく思い遣りから出たものだということを、対外的にアピールしたいの。グラードの助成によって立派に成長した子供が、長じてボランティア活動にいそしむ。こんな美談はないわ。その様子を内外に示すことによって、グラード財団の福祉活動は長期的に行なわれていて、これからも連綿と続いていくんだということをアピールできるわけ。これは企業イメージの向上に関わる大事な仕事なのよ。氷河と瞬には心して取り組んでもらわないと」

青銅聖闘士たちが地上の平和と人類の安寧を守るための命掛けの戦いに臨もうとしている時にさえ、沙織は、その戦いの意義を説き、聖闘士たちを激励するようなことしたことはない。
確かにそれは、わざわざ言及して聖闘士たちの自覚を促す必要のないことではあった。
聖闘士たちはすべてを心得ている。
だが、それでも、それは命を落とす危険のないボランティア活動よりは はるかに覚悟と心構えの要る仕事であり、アテナが毎回わざわざ言及して聖闘士たちの自覚を促したとしても、彼女の聖闘士たちは決して不快を覚えることはなかっただろう。
アテナの聖闘士の本来の仕事はいったい何だったのかと再び深い溜め息をついたのは、これまた氷河でも瞬でもなく、以下同文。

「しかし、目的がそれなら、氷河たちのボランティア活動は1日もすれば十分でしょう」
溜め息をつくのに忙しい星矢に代わって、今度は紫龍が沙織に尋ねる。
沙織は、大袈裟に首を振って、紫龍の認識を正してきた。
「そういうわけにはいかないわ。本来の仕事を抱えている勤め人ならともかく、無職の人間のたった1日だけのボランティアなんて。PR画像欲しさのせこい所業と思われて、かえって世間の人たちの心証を悪くするのが落ちよ。高校や大学でボランティア活動の単位をとるのにだって30時間から40時間の実習が課せられているっていうのに。氷河と瞬には1ヶ月はボランティアを続けてもらうわ」

それは既に沙織の中で変更不可の決定事項になっているらしい。
無駄と知りつつ、忠告の意味を込めて、紫龍は彼女に進言した。
「瞬はそういうことが好きだし、適任だとも思いますが、氷河はそういう仕事には向いてないんじゃないですか」
「あら、だって、瞬が行くなら、氷河もついていくでしょ。財団の社会貢献が国際的なものであることをアピールするのに、氷河の金髪は好都合だし、何よりあの二人は絵になるのよね。星矢だと子供たちに同化しちゃってインパクトに欠けるし、あなただと、やっぱりその異様な長髪は、福祉関係の仕事に従事するキャラクターとして好印象を与えられないと思うのよ」
「……」

アテナのために命を懸けて戦っている彼女の聖闘士に向かって、言いたいことを言ってくれるものである。
紫龍は、『富者に礼儀作法はいらない』というトルコの諺の意味を、しみじみ考えることになったのだった。
これがひと月前のことであったなら、紫龍とて――もちろん星矢も――協力を惜しむことはしなかったし、氷河と瞬を笑顔で送り出すこともしていただろう。
だが、今。
よりにもよって、今。
沙織がそんなことを言い出したのは、氷河が枯葉にも焼きもちを焼く男になってしまった今この時なのである。

この場合、瞬が子供に好かれるタイプで、瞬自身も子供好きだという事実は、マイナスの要因にしかならないのだ。
氷河が、瞬に懐いてくる子供たちに焼きもちを焼き、あの落ち葉のように彼等を握りつぶしてしまうことがないと、いったい誰に言えるだろう。
少なくとも、星矢と紫龍には、そんなことを軽々しく言うことはできなかった。

「氷河の奴、瞬以外の人間も命を持ってるんだってことくらいは、わかってるよな?」
険しい顔をしている紫龍に、星矢が不安そうに呟く。
紫龍は沈黙の答えを、星矢に返した。
それは『あたりまえだ』と安請け合いのできることではなかったのである。
なにしろ人命がかかっている。

それでも紫龍が断固としてグラード財団総帥の計画を思いとどまらせようとしなかったのは、氷河と瞬のボランティア活動が泊まり込みのものではなく、9時から5時までの通いの仕事になると、沙織に告げられたからだった。
毎日帰宅する氷河の様子を観察して、状況が抜き差しならないものになりかけたら、その時に氷河のボランティア活動中止を改めて提案すれば、最悪の事態は免れられるだろうと、彼は考えたのである。
要するに、龍座の聖闘士にも天馬座の聖闘士にも、正面からアテナの計画に異議を唱えるだけの度胸はなかったのだった。






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