このままでは、苦しみと悲しみがあってはならない無憂の苑が、俺の悲しみと苦しみで覆い尽くされてしまう。
彼女はそれを懸念したのかもしれなかった。
彼女は結局 俺の悲嘆に負け、瞬を彼女の国に連れ戻してくれた。

瞬が俺の側にいなかった時間――俺にとってそれは永遠にも思えるほどに長い時間だったが、実際には人間の世界でいうところの4、5日ほどの時間にすぎなかったらしい。
それでも瞬の不在の時を永遠の無明と感じた俺の感覚が大袈裟なものだったとは、俺は思わない。

「あの領主は、己れの見苦しい所業を忘れることを望んでは いなかったようだが――私はあの男の記憶をすべて消してきた。この世界に連れてくるにはふさわしくない男なので、人間界のあの男の館に置いてきたが、もうあの男はそなたの村の者たちに危害を加えることはしないだろう」
瞬を無憂の苑に連れ戻した彼女は、俺を無視して瞬に、事の経緯と現状を説明した。

「あのような場所でよく平気で暮らしていられるものだ。あの男の館では、あの男に命を奪われた者たちの怨念が至るところに浮遊していたぞ。苦悶の魂が部屋という部屋、壁という壁に貼りついていて、おぞましいこと この上なかった」
自らの為した行為の裏にある真意をごまかすためか、彼女は意味のない繰り言を語り続ける。
だが、俺にはわかっていた。
彼女は、彼女の我儘な“息子”の駄々に負けたんだ。
俺が“母”に感謝の眼差しを向けると、そんな俺を見て、彼女は少々自虐の気味のある溜め息を洩らし、言った。

「あの男が触れる直前にさらってきた。瞬にあの男の死の匂いはまだついていない」
「ああ……ありがとう!」
俺は素直に“母”に礼を言った。
本当に嬉しかったから。

「……ありがとうございます」
だが、瞬が彼女に告げた礼の言葉は、自分が救われたことを感謝してのものではなく、領主の悪行から逃れられることになった瞬の村の者たちのためのものだったろう。
瞬自身は、自分がこの苑に戻ってきたことを心から喜んでいるようには見えなかった。
だから――俺は、瞬を取り戻すことのできた喜びのままに 瞬を抱きしめることができなかったんだ。

死人の魂が貼りついている館の主に比べれば、瞬はよほど善良な人間だと認めるに至ったのか、彼女は、青白い頬を強張らせている瞬に一つの提案をした。
「氷河は、おまえなしでは、この無憂の苑にいても苦しくて悲しいばかりだと言うのだ。氷河のために、そなたはここにとどまりなさい。人間界での記憶をすべて捨てると一言 言えば、おまえはここで氷河と共に生きていくことが許される身になる。それがそなたの望みなのだろう? 氷河と共に幸福になること――」
その提案を瞬が喜んで受け入れるとは、彼女は考えていないようだった。
同時に、受け入れないはずがないとも考えているようだった。
瞬に語りかける彼女の口調と言葉は、そんな矛盾に満ちていた。

「そうしたいといえば、氷河が人間界での僕を忘れてしまったように、僕も氷河と過ごした日々を忘れてしまうの?」
瞬が、硬い表情のまま、この国の女王に問う。
「そうだ。ここは悲しみのない国。過去を忘れてしまわなければ、人は幸福にはなれない」
女王はにべもなく答えた。

「僕は、氷河を忘れたくないの」
「そなたは幸せになりたくないのか」
「今の氷河は幸せなの?」
「つらいことをすべて忘れ去ったのだ、当然だろう。氷河に母の死を忘れさせてやったのは、この私だ。氷河がそれを望んだ」
「氷河は、お母さんと過ごした幸福な日々の思い出も忘れてしまっている。今の氷河は抜け殻も同じ。悲しいことも苦しいことも、何も見ようとせず、何も聞こうとせず、自分の心しか見ていない――自分の本当の心も見ていない」
「忘れなければ、人は幸福にはなれない。人とはそういうものだ」
「たとえ つらい思い出を一つ忘れることができても、人は新しいつらさと悲しみを生むよ。だって、人は心を持っているんだから……!」

「瞬……?」
瞬が何を言っているのかが、俺にはわからなかった。
俺の“母”が瞬に告げている言葉の意味も、俺にはわからなかった。
人間界にいた時の俺の記憶――とは何だ?
俺は、この国に来る前、まだ人間だった頃、人間界でいったいどういう生を生きていたんだ。
彼女だけならともかく、瞬もそれを知っている――?

二人のやりとりに戸惑うことしかできずにいる俺に、瞬がすがりついてくる。
細い腕で俺を抱きしめて、瞬は叫ぶように俺に訴えてきた。
「氷河、これが最後のお願い。氷河、僕と一緒にこの国を出て。僕と一緒に人間の世界で生きると言って……!」

いったい何がそんなに瞬の心を取り乱させているのか――。
いつになく激情的な瞬の肩を抱きとめながら、だが、俺は瞬の懇願に屈してやることはできなかった。
「瞬……俺だってそうしたい」
俺だってそうしたい。
瞬と共に生きていたい。
だが、それは実現されてはならない望みなんだ。

瞬が、俺の答えに絶望したように、涙をためた瞳を俺に向けてくる。
「なぜできないの。どうしてなの」
泣かないでくれ――泣かないでほしい。
俺は、嬉しくて泣いている瞬の涙しか見たくない。
他のどんな瞬の涙も見たくない。
だが、その願い以上に――俺は“母”を捨ててしまうことができないんだ。

「俺がこの世界を出てしまったら、彼女はこの世界に一人きりになってしまう。だから……俺はここを出ていけない」
それが、俺がこの国を出られない理由だった。
人間界が恐いわけじゃない。
そこに瞬がいてくれるなら、俺はもう人間の世界も人間も、自分の死すらも恐ろしくはない。
瞬と二人でいられるのなら、俺はそれがどこでも構わない。

だが、彼女はこの無憂の苑でしか生きらないものだ。
彼女の愛に少しも報いようとしない我儘な“息子”を愛し続ける、孤独で悲しい、人間ではないひと。
俺は、彼女から彼女の息子を奪い取ることはできないんだ――。






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