暑い一日の最も暑い時刻はとうに過ぎていた。
最後まで瞬の側にいようとした老女も、心配した娘が迎えに来て家族の許に帰っていった。
余震は続き、崩れはしないだろうと思いはするものの、家の中にいることを本能が拒否する。
瞬は庭に出て、軽さのせいで転がるだけで済んだらしい屋外用の籐椅子に腰をおろし、変わってしまった世界をぼんやりと視界に映していた。

「瞬っ! 瞬、どこだっ」
(え……?)
瞬がその声を聞くことになったのは、西に傾き始めた太陽が地上に最後の輝きを投げかけようとしている頃だった。

門も塀も消えてしまい、家の敷地の内と外の区別もできなくなっていた屋敷の庭。
自分は本当は既に死んでいて、望むことがすべて叶う世界の住人になってしまっていたのだろうかと疑いながら、椅子から立ち上がった瞬の視界に、瞬が今最も会いたくて、最も会うのがつらい人の姿が飛び込んでくる。

「瞬、無事だったんだな。よかった……!」
氷河の端正な顔は埃だらけだった。
顔だけでなく、シャツも土埃に覆われ、ところどころが破れている。
ここは武蔵野の外れ。
今は、電車も自動車も使える状態ではないはずである。
では氷河は、本郷から歩いてここまでやってきたのだろうか。
いったい何のために――。

「氷河……どうしてここに」
「紫龍から教えてもらったんだ。地図も役に立たないありさまだから、奴も『西に向かえ』と大雑把なことしか教えてくれなかったがな」
そんなことを知りたくて尋ねたわけではないのだが、氷河の笑顔を前にして、瞬は続く言葉が思いつかなかった。

「最初の揺れがきたのが、紫龍と一緒に奴の下宿を出て大学の構内に入ろうとしていた時だったんだ。あのまま奴のところにいたら、十中八九 本に埋もれて死んでいたな。帝都の中心部はひどいものだ。東京が関東平野にある町だということを、初めてこの目で確かめることができた」
では、丸の内や浅草で高さを競うように林立していたビルたちは ほとんどが崩れ落ちてしまったのだろう。
自然が色濃く残る武蔵野とは違う都会の惨状を思い描くことは、瞬にはできなかった。
それは想像を絶する光景には違いなかったが、だが、それ以上に瞬には、今自分の目の前にいる人の姿の方が信じ難く不思議なものだったのである。
なぜ、彼がここにいるのだ――?

無言で瞳を見開いているだけの瞬を見詰め、氷河が短い沈黙を作る。
そうしてから彼は、思い切ったように口を開いた。
「紫龍に――生きているうちに告白しないと後悔すると言われた。おまえが生きていてくれて よかった……」
その言葉を言い終えるより先に、氷河の腕が瞬を抱きしめる。
瞬は、自分の身に何が起きているのか、すぐには理解できなかった。

「氷河……?」
「……会いたかったんだ。だが、会ってしまったら、こうして抱きしめずにいられないことがわかっていた。俺はきっとおまえを汚す。俺は欲深で あさましい男だ。だから会えなかった。だが、会いたくて――会いたかったんだ……」
「氷河……が恋してる人って……誰?」

それは、他の誰かではなかったのだろうか。
氷河が生意気な口をきく子供に会いにきてくれなくなったのは、その子供が彼にとって無意味な存在になってしまったからではなく、全く逆の理由によるものだったのだろうか?
瞬の知りたいことに、氷河は答えてくれなかった。
無言で瞬を抱きしめる腕に力を込める。
それが、彼の答えだった。

書き手自身の恋の詩集など悪趣味な公開ラブレターだと、そんなものは詩人の露出趣味にすぎないと、氷河は佐藤の行為の無様さをあざけっていた。
伝えられない恋心、だが伝えたい恋心。
恋をした氷河は、彼が無様とあざけっていた佐藤と同じことをした。
せずにはいられなかったのだろう。
それが――てっきり、他の誰かのために為されたことだと思っていた無様さが――他の誰かのためのことではなかった。
そうではなかった。
氷河は、氷河を恋して生きる気力も失いかけている愚かで小さな者のためにそれをした――してくれた――らしい。

瞬の頬と胸に、何か温かいもの――熱いもの――が生じてくる。
使用人たちを帰しておいてよかったと思いながら、瞬は氷河の背に腕をまわしていった。
それだけで、瞬の中には恋を知る以前と同じ――否、それ以上に強い力がみなぎってきた。

「汚すのが恐いから会えないなんて、氷河、いくら何でも清らかが過ぎるよ」
生意気を言う力も蘇ってくる。
瞬は必死に氷河に胸にしがみつきながら、傍迷惑な清らかさを振りかざしてくれた詩人をなじった。
「僕は、僕が氷河に抱きしめてもらえたらどんなに素敵だろうって、そんな夢見たいなことばかり考えて、なのに氷河は他の人を抱きしめてるんだって醜い嫉妬をして、自己嫌悪に陥ってたのに……!」

小さく叫ぶように言いながら、氷河の胸に頬を押しつける。
氷河の心臓がありえないほど速く大きく波打っていることを直接我が身で感じ、瞬は泣きたい気持ちになった。
これほど正直な心と身体、勇気を出して氷河に会いにいっていれば、自分は彼の恋人の正体にもっと早く気付くことができていたかもしれないのにと、瞬は自分の臆病と卑屈を後悔した。
恋というものがそういうものであるにしても。

「でも、僕が恋してるのが氷河である限り、僕の思いは清らかであり続ける」
「そ……れは面白い見解だな。この俺が清らかとは。おまえはもう少し客観的なものの見方を学んだ方がいい」
語る言葉の内容は、佐藤の詩を辛辣に批判していた頃の氷河のそれと さほどの違いはなかったが、氷河の声は僅かに震えている。
この期に及んで氷河は、恋する詩人の無様さを隠し通そうとしているのだろうか。
だとしたら氷河は本当に可愛い人間だと、瞬は思った。
「僕にはそう見えるんだもの。氷河は誰よりも清らかだ」
可愛すぎて、傍迷惑ですらある。

「ある人が清らかかどうかなんてことは きっと、その人当人だけは判断しちゃいけないことなんだよ。自分の心を見る時、人は自分の中の醜いものにばかり敏感で、自分の心の清らかな部分には気付かない。でも、それが人間らしくて正当だよね。自分は清らかな人間だと断じることのできる人は、真摯に自分自身を見詰めていないか愚鈍な人だと思う。錯覚でも誤認でも――ある人が清らかかそうでないかの判断は、他人が外から見て判断するしかないことなんじゃないのかな」
そう告げる瞬の目には、氷河こそが この世界で最も美しく最も清らかな人間に見えていた。

「だとしても、いくらなんでも俺が清らかというのは――」
氷河は、瞬の判断にやはり異議があるらしい。
いかにも きまりの悪そうな声音でぼやく氷河に、瞬は思わず苦笑してしまった。
そして、つい先程まで生きることに絶望していた自分が、笑えることに驚く。

「清らかでも汚れていても、氷河が生きていてくれればそれでいい。よかった」
こんなひどい有り様でも、自分は氷河が生きていることを喜ぶ力を持っている。
自分が氷河に恋されている人間であることが、こんなに嬉しい。
たとえ今夜眠る場所がなくてもなんとかなると、瞬は思った。
その上、これほど恐ろしい自然の力に襲われて 人はいつ死ぬかわからないということを知ってしまったら、他に恐れるものは もはやこの世には存在しない。

もしかしたら、氷河の思いを清いと感じる心も、そもそも彼を好きだと感じる心自体が錯覚なのかもしれない。
氷河の辛辣の悪影響で、瞬はそれを疑った。
だが、その錯覚が生きる力になるのなら、それを力にして生きていこうと、瞬は氷河の胸の中で思った――思うことができた――のである。

「瞬……」
あさましい欲望を伴った恋に囚われている男を 清らかな存在に浄化してくれる恋人をその胸に抱きながら、氷河もまた瞬と同じことを考えていた。
人の心に熱病のような絶望と希望を運び、正常な判断力を失わせ、臆病と卑屈をもたらし、我儘なほどの欲望をさえ生む、制御のきかないこの思い。
それでも。

『うれひは清し、君ゆえに』
氷河は、この歌を歌った詩人の真情が、今 初めてわかったような気がした。












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