Ice Mind

〜 万朶の桜さんに捧ぐ 〜







瞬は、彼に生きていてほしいと思っていた。
瞬がそう思ってしまうのは、“生きていること”その一事だけが、瞬の幸福のすべてだったからなのかもしれない。
生きていることさえできたら、大切な人の姿を見ていられる。
彼が苦しんでいる時には励まし、悲しんでいる時には慰めることができる。
生きてさえいれば。

それより多くのことを望もうとは思わない。
だが、この世に“生きていること”以上に素晴らしい恵みがあるだろうか。
この世界に生まれ生きているからこそ、自分は自分の大切な人に巡り会うこともできたのだ。
それは奴隷の考え方にすぎないのかもしれないけれど――と瞬は思った。

国を失ったとはいえ、一国の王子。
父王亡き今、本来ならば広大な北の国を治める一国の王となっていたはずの人。
生まれながらにそういう運命を担っていた人間は、治めるべき国がなければ生きていても無意味と考えるものなのかもしれない。

国を失った彼の無念はわかる。
一国の王となるべく育てられた彼が、その国を失って、生きる意味を見失い苦しむ気持ちもわかる。
王には国が必要なのだ。
だからといって こんな無謀に挑戦し命を落としてしまったら、これまで王になるべく生きてきた時間そのものが無駄になってしまうではないか。

そう思ってから、瞬は自分自身をあざけった。
そんな理屈をこねて、自分はただの奴隷にすきない自分自身の心を慰めようとしているだけなのではないか、と。

氷河は、恋をしたのだ。
何の力もない小さな奴隷とは比べものにならない、美しく高貴な大国の姫君に。
一介の奴隷である自分は、それを認めたくないだけ。
氷河は王女を欲しているのではなく、彼女の夫になることによっ得られる彼が治めるべき国を欲しているだけなのだと思いたいだけ。
だが、これは恋。
ただの恋にすぎないのだ。

今の氷河の様子を見れば、それは一目瞭然のことだった。
すべてを失って――母を失い、父を失い、治めるべき国と治めるべき民を失って――ただただつらそうな眼差しで、彼のただ一つの持ち物である奴隷を眺めているだけだった彼の瞳が、今は輝いている。
恋のせいで。
恋をしたせいで。
美しく残虐な姫君に、瞬の主人は恋をしたのだ。

氷河が恋に落ちた相手は、氷のような心を持つ大国の王女だった。
求婚者である王子たちに3つの謎かけをし、その謎がすべて解けたら王子の妻になるが、解けなかった場合には求婚者の首を刎ねる。
遠い昔、他国の王子に殺された先祖の姫の恨みが、現在の彼女を復讐に駆り立てているらしい。
東の国の都に入るなり、瞬と氷河は、謎解きに失敗して首を刎ねられるペルシャの王子の処刑の様を見ることになった。
そんな場面を見せられたばかりだというのに、氷河は彼女の謎かけに挑むことに決めたと、瞬に告げてきたのだ。

もちろん瞬は主人の決意に驚いた。
そして、この国の姫を手に入れることによって、氷河は彼の失われた国に代わるものを手に入れようとしているだけなのだと、懸命に自分自身に言い聞かせた。
しかし、それは無駄な努力だった。
事実はそうではなかったのだから。
月明かりの中、王宮前の広場でペルシャの王子の処刑を眉ひとつ動かさずに見詰めていたエリス姫。
その姫の美しさに、氷河は心を奪われてしまったのだ。

氷河は、1年の半分を雪と氷に閉ざされる北の国の王子だった。
しかし、彼の国は冥府の王に消し去られてしまった。
他の何ものにも代え難いほど愛していた母君が病を得て亡くなったことに落胆し憤った彼は、母を死の国に連れ去った冥府の王を呪った。
そこに冥府の王がやってきて、神に対して呪いの言葉を吐いた氷河の国の住民のすべてを、彼の従属神である眠りの神に委ねてしまったのである。

北の国の民は――氷河の父王も含めてすべてが――百年の眠りについてしまった。
その清らかさの故に冥府の王にも手出しができなかった奴隷を一人除いて。
一国の王子であった氷河の持ち物は、今はその奴隷一人だけ。
治めるべき国を、その民を失い、一国の王子としての輝かしい栄誉と希望をも失って、氷河の心は氷のように冷たく凍りついてしまった。
彼が、彼と同じ氷の心を持つ王女に惹かれたのは、自然なことだったのかもしれない。

その上、謎解きに敗れたペルシャの王子の処刑を冷ややかな眼差しで見詰めるエリス姫は、非常に美しい少女だった。
少女というより そろそろ女性と呼んだ方がふさわしいのかもしれない年頃の、ともかく美しい姫だった。

氷のような心、氷のような美貌。
それはもしかしたら、汚れを受け入れようとしない潔癖の表われなのかもしれない。
生まれながらに富と力を その手にし、望むものはすべて叶えることのできる王女。
彼女は人の命でさえ簡単に奪い、それで誰からも咎められることはない。
彼女は氷河と同じように人を支配する側の人間で、支配されるために生まれた者たちとは 人としての種類が違うのだ。
彼女はすべてを手にしている。

翻って瞬は、自分のものといえるものを何ひとつ持たない、非力で小さな奴隷にすぎなかった。
身体は主人である氷河のもの、心は瞬自身が自分の意思で氷河に捧げていた。
だが、奴隷でも恋をする。
氷河は、奴隷にも心があることなど考えたこともないのだろう。
あるいは、奴隷は主人への忠誠心だけを持っているものと考えているのだろう。
彼は、彼の奴隷が忠誠心のみならず恋心をも彼に捧げていることを知らず、彼の危険な挑戦への決意を泣きたい思いで見詰めている奴隷の心など歯牙にもかけない。
氷河は、月の光を浴びて御座についている残酷な(だが美しい)姫君を食い入るように見詰めていた。






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