氷河が自らの勝利を信じているように、姫もまた自身の勝利を確信しているようだった。 翌朝、同じ広間。 昨日と違って、その中央に引き出されたのは氷河ではなく、非力で小さな彼の奴隷だった。 実際に第二の謎かけの場に立たされても、瞬は未だに氷河の意図がわかっていなかったのである。 なぜこんなことになってしまったのかが、どうしても。 昨夜、氷河はこの国の未来の王として、上機嫌の国王に歓待されたらしい。 瞬はといえば、エリス姫に命令された者に王宮内の部屋に軟禁された。 とはいえ、特にひどい扱いを受けたわけではなく――むしろ、その逆。 瞬が閉じ込められたのは、一介の奴隷に与えられるものとしては非常識と思えるほどに広く贅沢な部屋だった。 そこに食べきれないほどのご馳走が並び、絹でできた衣服が何着も運ばれてくる。 王女自身がやってくることはなかったが、彼女の意を汲んだ小間使いたちが、非力な奴隷のために行き届いた世話をしてくれた。 そんなふうにして、王女は瞬に元の主人を快く裏切らせようという魂胆らしい。 姫の小間使いたちは、 「なんて綺麗な奴隷だこと」 と意味ありげに笑いながら、奴隷である瞬に世辞を言うことさえした。 瞬は奴隷には分不相応に豪奢な部屋の中で、生きた心地もしなかったのである。 このもてなしが、氷河を裏切れという姫の無言の脅しであることは疑いようもなかった。 部屋の扉の前には鋭い槍を携えた見張りが立ち、窓の外にも数人の兵たちが北の国の王子の奴隷の逃亡を許さぬために一晩中 武器の音を響かせていた。 そうして迎えた朝。 瞬が引き出された広間の中央。 貴人にしか身につけることを許されていない絹の服を着せられた瞬の両側には、屈強な兵が二人ついていて、彼等は哀れな奴隷を脅すように瞬の目の前で抜き身の槍を交差させていた。 その様を見た王が、 「姫。気の毒ではないか。乱暴なことはせぬように」 と娘をたしなめたのだが、エリス姫は父王の言葉をあっさりと無視した。 この国の王は善良な人物のようだったが、一国の王にふさわしい威厳を全く備えていない。 氷河は王の玉座の横に立ち、一段高いところから 彼の哀れな奴隷を見おろしていた。 瞬が氷河の名を姫に知らせたら、彼は今夜にも処刑台の上に立たされることになる。 にも関わらず、氷河には取り乱した様子がない。 彼は冷ややかな眼差しで、瞬を見詰めている。 奴隷は、主人の名を言わない――言えない――と、彼は信じているようだった。 自分はどうしてこんなに冷酷な人を――残酷なほど正確に現実を見切ることをしてのける人を――好きになってしまったのだろう。 そう思いながら、瞬は氷河の信頼が嬉しかった。 今は、氷のような心を持つ北の国の王子――瞬のただ一人の王。 だが、北の国がこの地上にあった頃、彼はいつも春のように温かく瞬に微笑んでくれていたのだ。 非力でろくな仕事もできず、彼の城の庭で花の世話をしていた奴隷に、彼は優しかった。 それは氷河の母君の好きな花で、その花畑は氷河が母のために作った場所だった。 瞬は、心をこめてその花たちの世話をした。 北の国は、1年の半分を雪と氷に閉ざされる国。 生花は、宝石よりも貴重な宝だった。 課せられた仕事に勤めているだけの奴隷に、氷河は、 「おまえはこの花に似ている」 と言って、礼を言うことさえしてくれた。 あの頃の笑顔を、瞬は、氷河に取り戻してほしかった。 それが瞬の唯一の望みだった。 氷河が生きている限り、それは見果てぬ夢ではない。 氷河が幸福な王子だった時、瞬に恋の感情を運んできたもの。 それを取り戻した時、氷河は、瞬が真に恋した人に戻ってくれるだろう。 そう信じて、瞬は彼のただ一人の王に正面から向き合った。 「僕だけが 「そうだ」 瞬を見おろす氷河の視線は、今は、それだけで瞬の鼓動を止めてしまいそうなほど冷たいものだった。 覚悟はできているのに、瞬は苦しかった。 瞬のただ一つの願いは、瞬が死んだあとにしか実現しないのだ。 彼の幸福な姿を、瞬には見ることができない。 瞬のその言葉は氷河に向けられたものだったのが、エリス姫はそれを、奴隷が自分の持っているものの価値を吊り上げることを意図して告げた言葉だと解したらしい。 「その名を私に告げよ。私の命令に従えば、そなたは何でもそなたの望むものをその手にするだろう」 居丈高にエリス姫が瞬に命じる。 瞬が本当に欲しいものが何であるのかも、彼女は知らないというのに。 「では、その宝石で飾られた剣をください」 瞬は、姫の横に立つ衛兵が腰に帯びているものを指差し、言った。 もっと大層な褒美を要求されると思っていたのか、エリス姫が少々気が抜けたような顔になる。 「そんなものでよいのか? 奴隷の望みとは哀れなほど ささやかなものだな。よかろう。では、北の国の王子の名を」 兵は、仮にも囚われ人に武器を渡すことに懸念を覚えたらしかったが、この王宮では姫の命令は絶対のもの。 姫は、奴隷ごときに何ができるかと言わんばかりに自信に満ちた態度で、渋る兵に 命令に従うよう顎をしゃくった。 「ありがとう」 不安げな兵から剣を受け取ると、瞬は、剣の柄を握りしめることで 宝石で飾り立てられた重い鞘を床に落とした。 そして、その手に残った抜き身の剣の鋭い切っ先を自らの心臓の上に押し当てる。 生きてさえいれば、氷河の姿を見ていられる――。 瞬はこれまで、決して多くを望まぬようにと自戒しながら、自らの生を生きてきた。 奴隷には奴隷にふさわしい生き方と望みがある。 『生きていられさえすれば』 それだけを望み、その望みが叶うことを、瞬は幸福だと思おうとした。 だが、生きているだけでは駄目だった。 故国を失い希望を失った氷河と共に この東の国にやってきて、瞬はその事実に気付いた。 氷河が幸福でいてくれなければ、自分は幸福になれない。 氷河に笑っていてほしい。 彼に、以前の笑顔を取り戻してほしい。 人の意思と感情が自分の望む通りであればいいと願う その心は、奴隷にあるまじき深く強い欲望で、だが瞬はどうしてもその望みを叶えたかった。 その望みを叶えるためになら、命などいらないと思う。 瞬は、その望みを、自分の命に代えても叶えたかった。 それが、自分が幸福になるための唯一の道だと思うから。 |