eccentric lovers

〜 ミルーシャさんに捧ぐ 〜







「なぜこれが売れるのか、私にはさっぱりわからないのよ」
そう告げる沙織の声は、少々――否、かなり――苛立たしげだった。
これまで様々な大型プロジェクトを立ち上げ、そのことごとくを成功させてきたグラード財団総帥としては、『ヒットの理由が理解できない企画』の存在自体が許せないものだったのかもしれない。
たとえ それが自社製品で、財団総帥には 企画の存在すら知り得ないほど ささやかな映像ソフトの制作・販売のことであったとしても。

城戸邸AVルーム。
ホームシアターと言うにはあまりに巨大すぎるスクリーンに映し出されているのは、某日本国のありふれた繁華街の光景だった。
街路樹の様子から察するに、季節は晩秋。
少し冷たい風が吹いているらしい。
日は暮れているが、人通りの具合いからして、まだ宵の口といったところである。

主役は二人の男女のようだった。
『主役』と言っても、彼等は特に目立ったことをしているわけではなく、また、特に際立った容姿の持ち主というわけでもなかった。
カメラのフォーカスがその二人に合っていなければ、どう見てもただの通行人、見るからに脇役タイプ。
『一般に埋没している』という表現が最もふさわしい、ごくありふれた二人連れだった

そんな二人が腕を組んで、晩秋の繁華街を歩いている。
その歩き方も颯爽としたものではなく、歩き方の訓練を積んだモデルや芸能人の類でもない。
ソフトのタイトルは、『 Ordinary lovers 』――ありふれた恋人たち。
それは、看板に偽りなしという点では、優良ソフトと言っていい賞品なのかもしれなかった。

「こんなものが、先月今月と、もう2ヶ月も 今夏最大ヒットを記録したハリウッド映画のDVDより売れているのよ! 理解できないわ!」
「そんなにいきり立たなくても……。売れているのはグラード・ピクチャーズ・エンターテインメントから出たDVDで、売れていないハリウッド映画は他社のソフトなんでしょう?」
『こんなものが なぜ売れているのか理解できない』という意見――あるいは、感性――には、紫龍も沙織に同感だった。
だが、そんな彼でも、グラード財団総帥がその事実に腹を立てるのは至極当然――と思うことはできなかったのである。
自社製品が売れていることに立腹する企業経営者というものは、どう考えても理に適った存在ではない。

「理解不能よ!」
苛立ったように そう繰り返す沙織が、財に恵まれ、美貌に恵まれ、グラード財団総帥としても女神アテナとしても多くの男たちに かしずかれている少女で、その気になれば逆ハーレムの一つや二つすぐにでも構えることのできる立場の人間でなかったら、彼女は単にスクリーンの中の幸せそうな恋人たちをやっかんでいるのだと思うこともできた。
だが、実際には彼女は幸福な庶民をやっかめる立場の人間ではない。
沙織はやはり、自分に理解できない現象が起きていることに、企業経営者として苛立っているだけのようだった。

ありとあらゆることに恵まれた、いわゆるセレブリティ。
だからこそグラード財団総帥たる彼女は、庶民の感覚に期待して、この不可解な映像を彼女の聖闘士たちに視聴させ、彼等の意見を聞いてみることを思いついたのだろう。
だが、彼女の聖闘士たちは庶民ではあっても一般人ではなく――ゆえに沙織は彼女の聖闘士たちから有益な意見を得ることができずにいたのである。
それが彼女の苛立ちに拍車をかけていることもまた、否定できない事実だった。

寄り添って街を歩いている“ありふれた恋人たち”は、幸福な恋人たちでもあるようだった。
この世界には自分たちしかいないと思っているような、互いしか見えていないというような、そんな表情を、二人はしていた。
スクリーンの中の彼女・・は かなり小柄な少女で、懸命に上を見上げるようにして彼氏・・に何やら話しかけている。
が、二人の声は消されていて、彼女が彼氏に何を話しかけているのかはわからない。
DVDの視聴者が聞くことができるのは街の雑踏の音だけで、いずれかの店が流しているらしいラブソングが、到底 質が良いとはいえないBGMになっていた。

やがて行き当たった交差点。
信号は青だというのに、二人はそこで立ち止まった。
彼女が彼氏の腕を引く。
何をしているのかと思ったら、どうやら彼女は彼氏にキスをねだっているらしい。
彼氏はまるで人目を盗むように素早く彼女にキスをした。
街を行く人々は、だが、“ありふれた恋人たち”のすることに全く気を留めず、それぞれの目的地に向かって、二人の横を急ぎ足で通り過ぎていく――。

「このシーンが唯一のイベントなのよ。あとは、二人して街をだらだら歩いて、お店をひやかして、安い喫茶店でお茶を飲んで、本屋で詰まらない雑誌を買って、駅のホームで別れるの。夢もロマンもないでしょう? 夢やロマンどころか、山も落ちも意味もないわ。これこそ正真正銘のやおいビデオよ!」
昨今の世の中では――否、かなり以前から世間では――『やおい』なる言葉は別の意味で用いられているのだが、沙織はそこまでは『やおい』に通じてはいないらしい。
使い慣れていない俗語を無理に使ってみせるあたりからして、彼女はやはり庶民とは言い難い人種である。

「他人が芸もなく べたべたしているのを見ていて何が楽しいのか、私には全く――。映画やドラマならともかく、そうでないなら、他人がこんなふうにしているのを見せられるのは、普通の感覚を持った人間には むしろ苦痛なのじゃなくて? 彼氏や彼女のいない人たちには やっかみの種にもなりかねない映像でしょう、これは」
それでも、このアイテムは売れているのだ。
その奇妙な現象の理由を、沙織はどうしても理解したいらしい。

「あー……。もしかしたら、普通の恋人同士というものが 二人でいる時をどういうふうに過ごすものなのかを知らない人間が多いということなんじゃないですか?」
紫龍がその仮説を口にしたのは、沙織に対して誰かが何らかの意見を言わないと、沙織の苛立ちは際限なく増すばかりだと思ったからだった。
決して 本気でそんなことを考えたわけではない。

「どういう意味?」
「ですから、普通の恋人同士がどういうものなのかを知らない人間が、普通の恋人同士になるために これを買っているんですよ。自分の彼氏彼女に普通でないことをして嫌われたりすることのないように、これを見て勉強するわけです。あるいは、自分たちが普通であることを確認して、安心したいカップルというのがいるのかもしれない。マニュアル・参考資料として見るのであれば、普通はやっかみの対象となることでも、やっかむことなく見ていられるでしょう。ハリウッド映画の恋人たちの絡みは、そういう意味では日本のごく一般的なカップルの参考にはならない」
本気でそんなことを考えたのではなくても、その思いつきに それらしい理屈を添えることができるのが紫龍の特技だった。
彼は、伊達に 諸子百家が起こった国で修行を積んできたわけではないのだ。

「つまり、ハウツーものとして売れてるってことかよ?」
紫龍の仮説の意味するところをなんとか理解できたらしい星矢が、情けないと言わんばかりの口調で、脇から口をはさんでくる。
星矢は、そんなことにすらマニュアルが必要なのだとしたら、現代日本は何かどこかが狂ってしまっているのだと感じているような表情をしていた。

「自然環境ビデオとして見て 癒しや安らぎを得られる類の映像でもないようだし、そんなところなんじゃないのか」
なにしろ その仮説は、その場しのぎの単なる思いつきだったので――紫龍は、あまり自信はなさそうに頷いた。
彼は彼の思いついた仮説が事実であっても事実でなくても、そんなことは どうでもよかったのである。
検討に値する(かもしれない)仮説が提示されることで、沙織がその苛立ちを静めてくれさえすれば。

仲間の意図を感じとったらしい星矢が、その場を速やかにディスカッションモードに変えていく。
世間で何十万本売れていようと、アテナの聖闘士たちにとって その映像は全く興味を抱けない代物だった。
そんなものを見ていなければならない状況から、彼は一刻も早く解放されたかったのだ。
「でもさあ、それならもっとイケてるツラした二人を使った方がいいんじゃねーの? この二人って、まるっきり そこいらへんに転がってる にーちゃんとねーちゃんだぜ。女の子の方は、ちっこくて ちょっと可愛いけど、にーちゃんの方は野暮すぎ。これなら、氷河と瞬がいちゃついてるのを見てた方が、よっぽど目の保養になる」
「同じことを氷河と瞬がしていたら、それは“ありふれた恋人たち”の映像ではなくなるだろう。氷河と瞬は、日本のごく一般的な庶民が親近感を持てるような恋人同士じゃない。それこそ遠い世界の――ハリウッド映画に出てくる恋人同士より特殊だ」
「ま、氷河は、顔の造作だけはハリウッド俳優よりいいからな」

それが褒め言葉ではないことは、氷河もきっちり認識できているようだった。
それまで詰まらなさそうな顔をしていた氷河の表情は、相変わらず詰まらなさそうなままである。
詰まらなそうな顔をして、氷河は、
「それはいい考えだ。オファーがあれば、俺はいつでも喜んで応じるぞ」
と、実に詰まらなさそうな声で言った。
もちろん本気ではない。
氷河がその言葉を沙織ではなく星矢に向かって言ったことからしても、それは明白だった。
瞬を見世物にすることなど、たとえそれがアテナの命令であったとしても、氷河が是とするはずがないのだ。
紫龍や星矢同様、氷河もまた、某グラード財団総帥がその苛立ちを静めて、早く彼女の聖闘士たちを解放してくれればいいと、それだけを願っていた。

沙織の心に平穏にもたらすことで自分たちの自由と平和を確保すること。
それが、今 彼等が望んでいる唯一のことだった。
そして、固い友情と信頼で 言葉を交さなくても一致団結、一つの目標に向かって突き進んでいくことのできるチームワーク(?)が、青銅聖闘士たちの売りである。
彼等は今、彼等の本領を見事に体現していた――のだが。

残念ながら、その場にただ一人だけ、仲間たちと心を一つにしていない聖闘士がいたのである。
それは、他でもない某アンドロメダ座の聖闘士だった。






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