「――って 言ってくれてたから、星矢も これからは多少のことは大目に見てくれると思うけど……。氷河、少しは自重して」
「自重? 俺が? 何を?」
常識的といえる時刻、常識的といえる場所で、非常識にも同性の仲間の裸体を組み敷いていた氷河が、その口許にふっと薄い笑みを浮かべる。
「こういうとこでクールに笑う振りなんかしなくていいの」
一度唇をきつく引き結んでから、瞬は 裸の氷河の肩を指で弾いた。

「星矢、本当に爆発しかけてたんだよ。氷河があんなとこで、あんなことするから」
「だから奴には理解不能なことをまくしたてて煙に巻いてやったんだ。おまえも星矢に随分なことを言ってくれたようじゃないか」
「え?」
「一輝を本当に殺してしまわないために、俺があんなことを言ったんだとか――へたに詳細な解説をつけるから、星矢の奴、俺の一輝への殺意を半ば本気のものだと思い込んでしまっているようだった。俺は一輝なんか、本気で殺してやるつもりはないぞ。俺は、そんな面倒くさいことはしない。なのに、俺から どら焼きを受け取った時の星矢の目ときたら、まるで本物の狂人を見るような目だった」
「それは……」

星矢がうさぎ屋のどら焼きで氷河の今日の非常識を許すことになった経緯を、氷河はおそらく紫龍から聞いてきたのだろう。
氷河がその場にいないのをいいことに、かなりのフィクションを交えつつ余計なこと色々と語りすぎた自覚があっただけに、瞬は少しく口ごもることになった。
「それは、だって……でも、今日の非常識より もっと悪い事態もあるんだって思わせて、星矢を落ち着かせなかったら、あれから どうなっていたか……。うさぎ屋のどら焼きくらいじゃ、星矢は絶対に僕たちを許してくれなかったよ」
「もっと悪い事態というのは、おまえが死んだら俺も死ぬしかないほど、俺がおまえに執着しているという“事実”のことか」
「氷河……」

氷河の言葉と、冗談の色を全く たたえていない彼の瞳が、瞬の身体を震わせる。
瞬は泣きたい思いで、氷河の青い瞳を見詰めることになった。
星矢に告げた言葉のすべてが、星矢に怒りを忘れさせるための捏造にすぎなかったなら どんなにいいだろう――と、瞬は思った。
だが、そうではないのだ。
氷河の中には、確かに、狂気のような何かがある。

「そんな顔をするな。大丈夫だ。俺は死にもしないし、狂ったりもしない。おまえが生きていて、そして、俺のものだということを、俺に信じさせてくれている限り。だから、この不粋な膝から力を抜け」
氷河の両脚の間で、瞬の両膝は固く閉じられていた。
その間に氷河が手の平を捻じ入れようとする。
一度 唇を噛みしめてから、瞬は、氷河の命令に従った。
その時を待っていたかのように、氷河の右の脚と右の手が、瞬の膝の間に入り込んでくる。
「あ……」

今でも、この行為に抵抗を感じていないわけではない。
不快とは思わないが、不自然なことだというのはわかっている。
そんな倫理や自然に対する抵抗感よりも、氷河を失いたくないという気持ちの方が強いからこそ、瞬はこの不自然を受け入れるのだ。
氷河を失わないためになら、昼の光があふれている階段で 氷河の前に身体を開いてみせるくらいのことは大したことではないとさえ思う。
瞬はすがる思いで、その両腕を氷河の背に絡めていった。

「何でもする。僕、何でもするから、だから、氷河、狂ってしまわないで。僕は氷河のマーマみたいに、氷河を置いて死んでしまったりなんかしないから、だから……あっ」
瞬の内腿を撫でていた氷河のその指が 瞬の中に入り込み、瞬の中をゆっくりとなぞる。
ぞくりとする その感覚に、瞬は反射的に固く目を閉じることになった。

以前は、氷河を失ってしまわないために耐えていた その感触が、今では、瞬の身体を溶かし 五感を鋭くさせるための有効な前戯になっている。
ただ氷河に触れられているだけのことで驚異的に変化していく自分の身体を、瞬はもはや自分の意思ではどうすることもできなくなっていた。
疼き悶える瞬の身体を静めることができるのは氷河だけで、そのためには、一度限界まで燃え上がってしまうしかないのだ。
身体を開かされ 氷河を受け止める態勢をとらされることに、瞬はいつまでも――今でも――慣れてしまうことができず、そのたび恥ずかしくてならなかった。
自分が屈辱的隷従的な態勢を強いられていることへの抵抗感は消えない。
だが、そんな思いとは裏腹に、瞬の身体の内で瞬の血肉は期待に震えているのだ。

「おまえが生きている限り、俺は正気でいるさ。狂気なんて、誰の内にもある。俺だけがおかしいわけじゃない。本当はおまえも――」
じわじわと身の内に侵入してくるものに、瞬は耐える。
「あ……ああ……っ!」
耐え切れなくなって一度 声をあげてしまうと、その声を止めることは、もう瞬自身にはできなかった。
「あ……あ……ぼ……く、生きてるでしょ。わかる……でしょ」
「ああ、俺に吸いついて絡みついてくる。いい」
氷河の言葉に ほっとする間もなく、氷河は更に瞬の奥に入り込もうとする。
瞬の中がそれを歓迎していることを確かめることができたあとには、氷河はもう遠慮をしなかった。
瞬が、今になって再び両膝に力を入れようとすることも、こうなってからでは 既に氷河を拒むための所作ではない。
氷河は更に奥に侵入しようとし、瞬の全身は 自らが捕らえた獲物を逃がすまいとする。

「あっ……あっ……ああ……!」
この交わりで氷河が生きていることを感じることができるのは、瞬も同じだった。
氷河が生きていることを、熱と痛みと共に身の内で感じ、安心する。
これは、死んでいるものはしないこと、死んでいるものにはできないことなのだ。
あの時 死んでいたら、この めくるめく感覚に身を委ねることは二度とできなかった。

氷河は、瞬の兄に感謝していると言う。
おまえの兄が 私情に流される惰弱な男であってくれて助かった――と、ベッドの中で瞬に礼を言うことすらあった。かなり――皮肉な口調で。
氷河が一輝に直接礼を言わないのは、彼が性格的に素直に瞬の兄に感謝できるような男ではないというのもあったろうが、そんな謝意を一輝に告げたら、瞬の兄が怒髪天を衝くことがわかっていたせいもあるだろう。
単に一輝が私情に流されたのだとすると、結果的に兄に“私情に流されること”を強いた瞬が負い目を覚えることになる――という理由もあったかもしれない。
だから、氷河は、単純に、素直に、一輝に感謝するわけにはいかない。
だから、氷河は皮肉混じりに、瞬の前だけで、瞬の兄に対して皮肉に感謝してみせるのだ。
おまえの兄の計算高い惰弱に感謝している――と。

そして、氷河にそんなことをさせてしまっているのが他の誰でもない自分だということを、瞬は知っていた。
(僕はあの時、僕が死んだあと、残された氷河がどうなるのかを少しも考えていなかった。兄さんがどうなるのかも考えていなかった。星矢や紫龍がどうなってしまうのかも、人の世がどうなってしまうのかも、僕は本当は何も考えていなかったんだ。僕は、氷河を残して死ぬわけにはいかなかったのに――。自分の死がどんな事態を招くのかを考えずに、自ら死を選ぼうとする人間は本当に愚かだ……)

氷河が瞬の兄に感謝しているというのは、皮肉ではなく紛う方なき事実なのだろうと、瞬は思っていた。
一輝が彼の愚かな弟を殺さずにいてくれたからこそ、氷河は今でも生きていられるのだ。
氷河が憎んでいるのは、ハーデスなどではなく、氷河を残して死のうとした“瞬”なのだということも、今では瞬にはわかっていた。
兄が、自己犠牲の美しさに酔っていた愚かな弟を殺さずにいてくれたからこそ、今、氷河はこうして生きていてくれるのだ。
氷河に強いられる羞恥心も抵抗心も、氷河を忘れて死のうとした過去の自分に対する罪悪感の大きさに比べれば、何ほどのものでもない。
だから、瞬は、氷河のどんな我儘も聞き入れずにはいられなかった。

「あああああっ!」
兄の慎重で計算高い私情が、今も氷河を生かし続けてくれている。
瞬は――瞬も――兄に心から感謝していた。
兄さん、僕を殺さないでいてくれて ありがとう――僕に氷河を殺させないでくれて ありがとう――と。






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