「瞬がいつも側にいてくれたらいいだろうなぁ……」 瞬が部屋から出ていくと、瞬の姿を呑み込んだ扉を見詰めて、ヤコフはそう言った。 氷河に聞かせるためというより、独り言を呟くように。 「ヤコフ」 「瞬を見付けたから、氷河はマーマのことを忘れたんだ」 「忘れてはいな――」 「あんないいもの、氷河が独り占めするのはずるいぞ」 意味のない弁解を聞くつもりはないらしいヤコフが、氷河の方を振り返り、年長の友人の言葉を遮る。 ませた口調――というより、それは むしろ挑むような口調だった。 「瞬は複数の人間に共有できるものじゃないんだ」 ヤコフにそう言いながら――意識して険しい声を作って そう言いながら――自分は今更 何を言っているのかと、氷河は我が身の迂闊に臍を噛んでいたのである。 ヤコフが瞬に惹かれ、瞬を欲しがるようになることは、氷河には最初からわかっていた。 ヤコフが初めて瞬に会った時に見せた無反応にも見える驚愕を認めた時、氷河は 自分の予測の正しかったことを既に認めていた――確信していた。 その後のヤコフの態度があまりにヤコフらしくないものだったので、少しく その確信が揺らいだのも事実だったが、氷河の中からその確信が完全に消え去ることはなかった、 ヤコフのヤコフらしからぬ態度――それは、氷河が瞬に出会った時の反応と全く同じものだったのだ。 その時のことを、氷河は今でも鮮明に憶えていた。 あの時――幼かった氷河がそうだったように、ヤコフは、瞬がどういう人間なのかを一瞬で感じ取り、見抜いたのだ。 瞬が何ものであるのかを。 「おまえの気持ちはわかりすぎるほどわかるが――」 氷河が瞬に出会ったのも、今のヤコフと同じ歳頃だった。 聖闘士になるための修行を積むために長い別離の時を余儀なくされ、聖闘士同士として再会し、共に幾多の戦いを戦ってきた。 その戦いの中で敵を傷付け、敵を傷付けることで自分自身も傷付き、瞬は大人になっていった。 だが、瞬の本質は変わらない。 瞬の本質は“春”なのだ。 暑すぎず、寒くもない、暖かい春。 頑なで意地っ張りな冬を優しく諭し、なだめ、自分の中に取り込み、いつのまにか世界のすべてを支配してしまう春なのである。 その春がドアを開けて、大小 二つの冬がせめぎ合っている部屋に飛び込んでくる。 途端に、部屋の中の冷たい対立は温度を失い、切ない並立へと変化することになった。 「氷河、もう、ヘリ来ちゃったよ。沙織さん、本当に急いでるみたい」 「ああ、すぐ行く」 ヤコフが、シベリアを去ろうとしている春を見詰めている。 唇を強く引き結んで、ヤコフは切なげな瞳で瞬を見詰めていた。 「……」 ヤコフのその姿が 幼い頃の自分を見ているようで――幼い頃の自分自身に重なって、氷河はどうにも やりきれない思いに囚われてしまったのである。 図体だけなら大人になり、聖闘士にまでなりおおせた自分が、今のヤコフと同じ歳の頃、幼な心に どれほど瞬に焦がれたか。 その時、氷河は、母親を亡くしたばかりで、世界に心を閉ざしている子供だった。 昨日までのヤコフのよそよそしさごときとは比べものにならないくらい、口数が少なく、愛想もなかった。 そんなふうに、春に出会っても解けることを忘れた根雪のように頑なになっていた子供の心を、瞬は、辛抱強く少しずつ少しずつ解かしてくれた。 瞬は、ひと吹きで事物を凍りつかせることができなければ 早々に その力の行使を諦めて どこかに飛んでいってしまう木枯らしとは違う、決して諦めることをしない優しい春の風だった。 否、瞬は春そのものなのだ。 生きることを放棄しかけた白鳥座の聖闘士を、命をかけた温かさで死の国の淵から呼び戻してくれた春。 北に生きる人間が焦がれる春。 1年の大半を占める冬の間、北の人間がじっと待ち続ける春。 冬が来て白い悪魔のような雪に世界が閉ざされると、北の人間は――北に生きるすべての生き物は――春は本当にもう一度巡ってきてくれるのかという不安に襲われる。 それは 彼等には決して逃れることのできない宿命のような不安と恐怖で、だからこそ、春が来ると、彼等の命は力を取り戻し、心までが再生されるような思いに包まれるのだ。 その再生の春が、ヤコフの許から立ち去ろうとしている。 ヤコフの心細げな眼差しに気付くと、瞬はふわりと春のように微笑した。 「すぐに悪者をやっつけて、ヤコフのところに氷河を連れてきてあげるからね」 「うん。待ってる」 そんな二人のやり取りも、氷河には、いつかどこかで自分と瞬が交わしたことのある会話に似ているような気がしてならなかった。 瞬は約束を守るだろう。 それが無邪気な子供との約束なら、なおさら。 そして、ヤコフは春の訪れに歓喜し、春という季節の中に我が身を投じずにはいられなくなるのだ。 かつての氷河がそうだったように。 現在の氷河がそうであるように。 これは、氷河が自分で招いた事態だった。 ヤコフの気持ちもわかるし、決してヤコフを嫌いなわけでもないから、氷河の心中は複雑だった。 ヤコフがかつての自分に似すぎていることが、氷河の複雑な心の内を更に複雑なものにする。 だが、氷河を最も複雑な気分にしていたのは、こうなることがわかっていたのに 瞬をシベリアに連れてきた自分の心の不思議な働き――だった。 ヤコフは瞬の中に春を見い出すだろう。 そして、瞬に惹かれることになるだろう。 それがわかっていたのに、氷河は瞬を この北の地に連れてきたのだ。 (俺は、要するに、俺だけが瞬の中に春を見るわけではないということを確かめたかったのか……) ヤコフは、家族のいる自分、聖闘士にならなかった自分。 戦いに明け暮れる聖闘士でなくても、瞬と共に戦う聖闘士でなくても、 瞬が自分の運命だということを確かめたかったのだ。 ヤコフがいつのまにかここまで ませてしまっていたことは、氷河には想定外にして計算外のことだった。 確かめるまでもないことを確かめようとしたせいで、氷河は要らぬ恋敵を作ってしまったのだ。 (ツェムリンスキーのオペラにあったな。自分の妻の美しさを自慢したくて仕方のない国王が、妻の姿を家来に盗み見させて、あげく、その家来に妻を奪われてしまう話……) 恋人に恋焦がれている男というものは 時に愚かなことをするものだと、氷河は己れの軽率を自嘲しないわけにはいかなかった。 (特に俺は、頭を春に犯されているようなものだから……) 小さな子供なら安心だろうと油断して、つまり、氷河はヤコフに瞬を見せびらかしたかったのだ。 自業自得とはいえ、この事態を招いた自分の愚かさを、氷河は今更ながらに悔やむことになったのである。 春を乗せたヘリの機影を、やっと春の気配を帯び始めた北の大地に立って、今はまだ小さな子供が食い入るように見詰めている。 それでもヤコフはまだ幼い子供だから、やがては 生きているこの春を忘れてくれるに違いないと、氷河は思い込もうとしたのである。 だが、他でもない自分自身が、瞬に会うことのできない6年間を経ても瞬を忘れられなかったという現実が、確かに存在する。 まさか自分とヤコフが一つの春を巡って熾烈な恋の鞘当てを演じるようなことにはなるまい――そう思おうとするほどに、氷河の嫌な予感は募るばかりだった。 氷河の春はといえば、彼の不安も知らずに、ヘリの窓から見える彼の小さな友だちに懸命に手を振っている――。 後悔は愚行の先には立たないもの。 人はいつでも愚かな行為をしでかしてから、過去の己れを悔やむものなのだ。 長い間 白以外の色を持たなかった北の大地は、まもなく 1年の中で最も美しい季節の色に すべてを覆い尽くされることになるだろう。 今の氷河にできることは ただ、見る目のある者に自分の宝を見せびらかすような愚行は二度とするまいと、己れを戒めることだけだった。 Fin.
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ツェムリンスキーのオペラ:『カンダウレス王』
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