季節はずれの嵐は相当せっかちな性格だったようで、昨夜のうちに急ぎ足で日本列島上空を駆け抜けていったらしい。
翌日は台風一過の晴天だった。
そして、嵐の夜が終わっても、瞬は仲間たちの許に帰ってこなかったのである。
朝帰りなどという洒落たことをしてくれた瞬をとっちめるために態勢を整えていた星矢の顔色は、太陽が中天にかかる頃には すっかり蒼白になってしまっていた。

「氷河。おまえ、瞬が行きそうなところに心当たりはないか」
「さあ」
「本当に知らないのか」
「……」
念を押された氷河が、一瞬ためらいはしても、
「もしかしたら、殺生谷に行っているのかもしれない」
と星矢に告げたのは、彼の計画では昨夜のうちに消沈して帰宅しているはずだった瞬が いまだに城戸邸に帰ってきていないせい――瞬が自分の計画通りに動いていないことに、氷河が焦慮を感じ始めていたから――だったかもしれない。

氷河の口から出てきた思いがけない地名に、星矢が怪訝そうに眉をひそめる。
「殺生谷? なんで瞬がそんなとこに行くんだよ?」
「あそこでマーマの写真を落としたかもしれないという話を、昨日、瞬とした。もっとも、失くしたというのは俺の勘違いで、写真は俺の部屋にあったんだが」
「――」

ここのところ まともに瞬と話もしていないようだった男が、なぜ よりにもよって昨日――嵐がやってきている昨日――瞬と そんな話をしたのか。
そして、なぜ、氷河はそれを夕べ 仲間に知らせようとしなかったのか――。
そういったことを考えて、星矢は 氷河の振舞いを不審に思ったようだった。
その不審の念を、星矢が氷河にぶつけなかったのは、彼が仲間の悪意を、僅かにでも『ありえること』と感じていたからだったろう。
悪意からのことではないと確信していたなら、星矢は、
『おまえは、なんで よりにもよって でかい台風がきてる時に、瞬と そんな話をするんだよ!』
と、氷河を怒鳴りつけていたはずだった。
そして、氷河から、そのミス――もしくは、軽率――の言い訳を手に入れようとしていたはずだった。
だが、星矢は、(おそらくは、瞬のために)氷河を問い詰めることはしなかったのである。
代わりに、彼は、独り言を呟くように低い声で呻いただけだった。
「瞬の奴、あの ひどい嵐の中、あんな 人が歩ける道もないようなとこに行ってたっていうのかよ」

そんな星矢に投げる氷河の言葉が、慌てた様子の全くない 冷ややかなものになったのは、そうするのが当たり前のことのように、あるいは、神の恩寵によって与えられた幸運な義務のように、瞬の身を案じることのできる星矢に、氷河が憎悪めいた感情を抱かずにはいられなかったから――だった。
「冬場の嵐とは違う。その上、瞬は聖闘士だ。多少 雨に濡れたところで凍え死ぬこともないだろう」
「凍え死にはしなくても、夕べの雨であの辺りは地盤が緩んでるはずだろ。崖から落ちて動けなくなってたりしてたら どーすんだよ!」
他のどこでもない殺生谷で、崖から落ちて瞬に救われたことのある星矢が、自身の経験に基づいて、瞬の身に降りかかる危険の可能性に言及してくる。
「瞬はアンドロメダ座の聖闘士だぞ。アンドロメダ聖衣のチェーンがある。瞬が崖から落ちる? おまえじゃあるまいし」
何という馬鹿げた心配をするのだと、半ば呆れ顔で、氷河は星矢の懸念を一蹴した。

しかし、今 この場に限っていうなら、『馬鹿なこと』を言ったのは、氷河の方だったらしい。
星矢は、苛立ったように氷河の浅慮を責めてきた。
「あのな。瞬は おまえの落とし物を探しに行ったんだろ? 敵がいるわけでもないのに、瞬が聖衣なんか持参するわけないだろ? おまえのアタマ、まともに働いてるか?」
「……」
「それに、いつもの瞬なら、失せ物探しが徒労に終わっても、俺たちに心配をかけないようにって考えて、昨日のうちに いったん ここに帰ってきているはずだ。帰ってきて、また今日 探しにいくはずだ。その瞬が いまだに帰ってきてないってことは、瞬の身に何かあったってことなんだよ!」
そんなこともわからないのかという怒りが言外にこもっている。
“そんなこと”もわからずにいた氷河は、星矢に どんな反駁をすることもできなかった。

「星矢。氷河には心当たりがありそうか」
「殺生谷だ」
ちょうどラウンジに入ってきた紫龍を押し戻す格好で、星矢が部屋を出ていく。
星矢たちを追いかけようとして、氷河もまた、掛けていたソファから立ち上がることをしたのである。
だが、彼は、仲間たちのあとを追うことはできなかった。

なぜ自分は星矢たちを追うことができないのだろうと、氷河は そんな自らを疑ったのである。
瞬の仲間として彼等と行動を共にすることは ごく自然なことであるし、瞬の身を案じる仲間の振りをして 星矢たちと共に殺生谷に向かうことは、星矢の中にくすぶっているらしい白鳥座の聖闘士への疑惑を晴らすことにもなるというのに。
なのに なぜ 自分は星矢たちと共に瞬の許に行くことができないのか――。

自分は罪悪感に囚われているのだろうかと、氷河はそんなことも考えてみた。
だが、すぐに そうではないことに思い至る。
あの鈍感な星矢でさえ、仲間の悪意に気付きかけている。
星矢より はるかに洞察力のある瞬が、それに気付いていないということがあるだろうか。
瞬がもし気付いていたとしたら――。
自分は“恐れ”のために星矢たちのあとを追うことができないのだと、氷河は自覚しないわけにはいかなかった。






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