しあわせの庭

〜 amiさんに捧ぐ 〜







「でも、きっと無理です……。僕は人形じゃないんですから……!」
ラウンジのドアの向こうから聞こえてきた瞬の声は、涙を帯びていた。
だから、氷河は、開けかけていたドアの前で一瞬 立ち止まることになったのである。
瞬が泣き虫でなくなったという話は聞いたことがなかったが、氷河は、最近は、戦いの場以外のところで泣いている瞬を滅多に見ることがなくなっていたから。

「沙織さん、いくら人助けでも、瞬にそれは無理なんじゃ……」
「同感だな。瞬は激情家というわけではないが、感情を隠すのは死ぬほど へたくそだ。だいいち、それでは氷河が いい顔をしないだろう」
「俺の顔がどうしたんだ」
また、グラード財団総帥であるところの城戸沙織が、アテナの権威をかさにきて、瞬に何か無茶なことをさせようとしているのだろう――そんなことを考えながらラウンジのドアを開けた氷河を 気まずそうな顔で迎えたのは、瞬に無理難題を強いているはずのアテナではなく、彼女の計画を思いとどまらせようとしていた(?)天馬座の聖闘士と龍座の聖闘士の方だった。
沙織は、むしろ、そんな星矢たちを尻目に、渡りに舟といった様子で、白鳥座の聖闘士の登場を歓迎してみせたのである。

「いいことを思いついたわ。瞬、あなた、お人形さんになれないというのなら、氷河にクールに振舞う方法を教えてもらったらどうかしら。あなたは別にお人形さんになる必要なんかはなくて、感情を表に出さずクールに振舞う術を身につければいいだけなんだから。氷河は、クールのオーソリティでしょ」
沙織の提案にどう反応したらいいのか わからなかったらしい瞬が、あっけにとられた顔で彼の女神を見詰める。
そんな瞬の脇で、星矢の顔は 明白に引きつっていた。
顔を引きつらせたままの状態で、星矢が紫龍にこっそりと――だが、氷河に聞こえる程度の音量で――尋ねる。

「おい、ここって笑うところか?」
あいにく、紫龍は、星矢の質問に対する正しい答えを知らなかったらしい。
“クールの対極に立つ男”との誉れも高い白鳥座の聖闘士に ちらりと一瞥をくれてから、彼は、星矢の疑念を別の言葉に言い換えた。
「沙織さん。それは氷河への痛烈な皮肉――と受け取っていいんですか」
『貴様の言い草こそが皮肉で嫌味だ!』と、氷河は、その皮肉にして嫌味を真顔で言ってのける紫龍を怒鳴りつけようとしたのである。
氷河が、その考えを実行に移さなかったのは――移せなかったのは――紫龍や星矢やアテナが“クール”などという性質を求めている事情が 全く見えてこないからだった。
氷河は、彼の仲間と女神が“人がクールであること”に いかなる価値も置いていないことを知っていたのだ。

「あら、私は皮肉の言い方なんて知らなくてよ。だって――」
沙織は紫龍の質問に白々しいまでに にこやかな微笑を返し、その白々しさに顔を歪めた星矢と紫龍に、悪びれた様子もなく、
「氷河に隠すより、協力させた方がいいでしょう」
と言った。
「いったい何のことだ」
当事者(?)に何の説明もないまま進んでいく仲間たちの会話に、氷河の声が苛立つ。
氷河の不機嫌な声を聞いて、星矢は、氷河への事情説明がまだだったことに気付いたらしい。
彼は、それでなくても自由奔放な髪を 更に右手でかき乱し、それからやっと、今 彼等が“クール”という性質を必要としている事情を 氷河に知らせる作業に取りかかったのだった――そのようだった。

「あのさー。城戸邸から駅に行く途中に洋館があるだろ。庭に、年中 何かの花が咲いてる英国風の」
言われてすぐに『ああ、あの家か』と わかる程度には、氷河はその家を知っていた。
城戸邸の住人が、駅に行くのにも、公園に行くのにも、必ず その前を通ることになる場所にある家。
その家は、城戸邸と違って高い塀がなく、通行人が庭を一望できる造りになっていて、その家が抱く庭は いつも花と緑で埋まっていた。
いわゆるイングリッシュ・ガーデンというものなのだろう。
人の手で作られた自然の庭は、どこをどう切り取っても絵になりそうな美しい佇まいで、多くの人の目を引いていた。
時折、庭を写真に収めようとしている者や、スケッチに来ている者を見ることもある。
言ってみれば、ご町内の観光名所といっていいような家と庭だったのだ。

とはいえ、氷河がその家や庭に関する情報を自分の記憶域に収めていたのは、瞬と連れ立って外に出ると、必ず瞬がその庭の前で立ち止まるからで、彼自身がその庭を美しいと感じているからではなかった。
その庭を見るたびに、瞬は『わあ、つるバラが花をつけてる』だの『レースラベンダーがすごく綺麗』だのと歓声をあげて嬉しそうに瞳を輝かせる。
つまり、それは瞬の気に入りの庭で、だから氷河は 貴重な脳の記憶域を その家と庭のためにわざわざ割いてやっていたのだ。

「あの家がどうかしたのか」
瞬の気に入りの庭と“クール”。
全く関係がなさそうに思われる その二つが一本の線に繋がるまでの道は長そうだと予感しながら、氷河が問い返す。
「家というより、住人だな」
「住人? あの家に人が住んでいたのか」
紫龍の補足説明(?)に氷河が反射的に発した言葉は、沙織を呆れさせることになったらしい。
そんな 考えるまでもないことに考えを及ばせていない氷河に、彼女は疲れたような嘆息を洩らしてみせた。
氷河は、単に、彼が興味を惹かれないことを思考の対象にせずにいただけのことだったのだが。

「あたりまえでしょう。あの見事なお庭の維持は、毎日丁寧に世話をしていなきゃ無理よ。あの家には沢山さわやまさんとおっしゃるご婦人が住んでらっしゃるわ」
「一人で?」
「一人だった……と言うべきね。沢山さんは、ご夫君を8年前に亡くされているの。息子さんが一人いらっしゃるんだけど、3年前からイギリスに留学していて、沢山さんは一人であの家を守ってらしたのよ。40代後半の、とても品のいい奥様よ」

沙織の説明を受けて 星矢が大きな身振りで肩をすくめたのは、その息子が、彼の住む世界とは毛色の違う世界の住人で、住む世界が違うだけならまだしも、人種までもが違うように感じられる人物だったから、だったのかもしれない。
「息子の留学先はケンブリッジだってよ。歳は22って言ってた。つまり、ダンナを亡くした未亡人の生き甲斐にして 自慢の息子ってやつだな」
「その自慢の息子が身体を壊して、異国の地で学業を続けるのが無理になり、休学して、1ヶ月前に日本に戻ってきた」
「入院して治療しても意味のない病気だから、自宅療養してるらしいんだけどさー……」

星矢は、そこで なぜか続く言葉を淀ませた。
ここまで他人のプライベートに踏み込んだ話をしておいて、今更 星矢が言葉をためらう理由がわからない。
当然のことながら、氷河は、星矢が言い淀んだ言葉の続きを要求することになったのである。
「なんだ。その自慢の息子がどうしたんだ」
「だから、その息子がさー……」
会話の流れとしては ごく自然な氷河の質問に答える権利と義務を、星矢は放棄したかったらしい。
視線で、星矢は、その旨を紫龍と沙織に伝え、結局その役目を引き受けることになったのは某龍座の聖闘士。
彼は一瞬 その顔を微妙に歪ませてから、おもむろに氷河の方に向き直った。
「病を得た沢山家の自慢のご子息は、部屋の窓から 母親の丹精込めた庭を眺めて日々を過ごしていた。そうするうちに、毎日 家の前を素晴らしい美少女が通って、母親の庭を眺めていることに気付いたんだ。そして、庭より、庭を眺めている美少女の方が気にかかるようになった」
「なに?」






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