それを 困っている顔というべきか、呆れかえっている顔というべきか。 あるいは 怒っているようにも、疲れているようにも見える瞬の顔。 どういう表情をしていても 瞬は可愛い――そんなことを考えながら、氷河はラウンジに入っていったのである。 瞬はどうやらソファに 反り返って座っている星矢のために、その複雑怪奇で可愛らしい顔を作ってやっていたものらしい。 「どうしたんだ」 氷河に尋ねられると、瞬は溜め息を一つついて、星矢の掛けているソファの向かいの席に腰をおろした。 「星矢が星の子学園に行くっていうから、ついでで ちょっと お使いを頼んでたのに、それを星矢が綺麗さっぱり忘れてくれたの」 「星矢が お使いを忘れた?」 そんなことはよくあることだし、一つのことに夢中になると他のことをすべて忘れる星矢の性癖を、瞬は承知しているはずである。 星矢のうっかりミスは、言ってみれば日常茶飯の事、当然 瞬はそれに慣れてもいるはず。 にもかかわらず、なぜ瞬は今日に限って そんな複雑怪奇な顔を星矢に向けているのかと、氷河は訝ることになったのである。 理由は すぐにわかった。 僅かに眉根を寄せている瞬に、星矢が開き直ったように投げつけた、 「だから、忘れてないって、さっきから言ってるだろ!」 という言葉によって。 星矢は『ごめんなさい』と謝れば済むところで、自分のミスを認めることを拒否しているのだ。 「忘れていないのに頼まれた事をしなかったのなら、それは怠惰か、悪意による行動ととられても仕方がないぞ。おまえは何か瞬に含むところがあるのか」 何か含むところがあるのなら、それを含んだままにしておかず、白日の下にさらけだして 自身の主張を堂々と声高に訴えるのが天馬座の聖闘士の身上。 言いたいことを ひた隠し、嫌がらせをするなどという遠回しなことのできる星矢ではないことは知っていたのだが、あえて そう言って、氷河は星矢を責めた。 たとえ 気の置けない仲間同士のことであっても、『ありがとう』と『ごめんなさい』は素直に言える人間でいた方がいいに決まっているのだ。 が。 星矢には星矢なりの『ごめんなさい』を言うわけにはいかない事情があったらしい。 氷河の非難に対して、星矢は、彼が頑なに『ごめんなさい』を言わずにいる事情(むしろ理屈)を説明し始めた。 「だから、違うんだって。俺はさ、瞬に『忘れないで』って言われて、お使いを頼まれたんだよ。瞬に何度も念を押されたから、絶対に忘れちゃいけないって思ったわけ。だから、頼まれた お使いの内容を最初から覚えなかったんだ」 「なに……?」 星矢の主張の意味するところが、氷河にはすぐには理解できなかったのである。 氷河は星矢の主張の内容を理解するのに、優に5秒以上の時間を要した。 その5秒ののち、低く呻くような感嘆の声を洩らす。 「なるほど。覚えなかったものは忘れることもできないという理屈か。『星矢はマクスウェルの方程式を忘れない。なぜなら、マクスウェルの方程式を知らないから』というわけだ。ゼノンも裸足で逃げ出しそうな見事なパラドックスだな――いや、詭弁か。瞬、ここは おまえの負けだ」 星矢がそう言うのなら、それは事実なのだ。 星矢は本当に、 となれば、瞬にできることは、星矢の誠意(?)を責めることではなく、この出来事を忘れずにいて、星矢に二度と この手を使わせないように次回から注意することくらい。 星矢の屁理屈に苦笑しながら、氷河は瞬をなだめることになった。 「だろ、だろ! さすが、キグナス氷河様は公平で公正な判断がおできになるぜ!」 星矢の詭弁には感心したが、心にもない お世辞には感心できない。 氷河は少しく口許を歪めて、調子のいいことを言っている天馬座の聖闘士を睨みつけた。 星矢と瞬が ほぼ同時に(おそらくは違う理由で)、両の肩をすくめる。 「氷河がいいのなら いいんだけど……。僕、氷河が読みたいって言ってた、プトレマイオスの『アルマゲスト』の原書が本屋さんに届いたっていうから、それを受け取ってきてって頼んだんだよ。僕は沙織さんに他の用を頼まれてて行けなかったから。いつもの本屋さん、明日から1ヶ月の予定で改装工事で お休みになるって言ってたし、でも氷河は早く読みたいだろうなあって思って。星矢は それを忘れて――ううん、故意に覚えなかったんだよ」 「それは実にけしからん」 瞬に事情の説明を受けるや、0.001秒の時間もかけずに、氷河はその態度を一変させた。 その変わり身の早さに、星矢がしばし唖然とし、やがて ふてくさったように唇をとがらせる。 「氷河! おまえは、瞬と俺の どっちの味方なんだよ! 俺は正論を言ってるんだぜ。瞬が言ってるのは、たまたま そうだった本屋の事情にすぎないだろ!」 「俺は もちろん瞬の味方だ。俺は、理より情を重視する男なんだ。人の思い遣りを理屈で退けるような やり方は好きになれない」 詭弁を正論と言い張ることほど 氷河は、星矢の訴えを にべもなく却下した。 「何が『理より情を重視』だよ。正義と瞬のどっちかを選べって言われたら、おまえ、平気で瞬を選びそうだな」 「正義と瞬のどちらかを選べという二者択一は、正義と愛のどちらかを選べという設問と同じだ。無論、俺は 愛を選ぶ」 「それ、ただの自己都合による依怙贔屓だろ」 「そういう ひねくれた捉え方をするのは感心しない。そんな考えでいるから、おまえは 詰まらぬ詭弁を思いつくんだ。反省しろ」 氷河が最初から瞬の味方についていたのなら、星矢もさほど 氷河の自己都合による依怙贔屓に不満を覚えることはなかったのかもしれない。 それが 一時は自分の味方についていた者の変心だったから、星矢は氷河の叱責に得心できなかったようだった。 そういう顔をして、星矢は その身体をソファの背もたれに投げ出した。 「俺が忘れたのが紫龍や一輝の頼み事だったら、反省しろなんて言わないくせに」 「面倒だからな」 氷河が あっさりと、自己都合による依怙贔屓を認める。 いよいよ ふてくさって、星矢は 口を への字に ひん曲げた。 |