「人間というものが、どうあっても過去に起きた出来事のすべてを忘れることのできない生き物だというのなら、つらかった出来事を忘れて、幸せだった時のことだけを忘れずにいればいいと思うんだが」
ふいに、まるで独り言のように氷河が口にしたそれが、疑問なのか、それとも希望に類することなのかを、紫龍は咄嗟に判断することができなかった。
が、それが瞬に関する発言だということだけは、彼にもすぐに わかったのである。
だから、紫龍は、いつになく深刻な表情をたたえている氷河に、まず苦笑の返事を投げ返したのだった。

それが瞬に関することでなかったら、その問題がどんなことであれ、氷河は『馬鹿か』の一言で切り捨てていただろう。
『馬鹿』の一言で切り捨ててしまえない相手が、今の氷河にいるということは、もちろん 良いことであるに違いないのだ。
それは、氷河を悩ませることのできる 生きている人間がいるということ、氷河に 死んでしまった者たちより大切な人がいるということなのだから。

「人間は、自分が最も幸せだった時のことを より鮮明に記憶に残すタイプと、最も つらかった時のことを より鮮明に憶えているタイプの2種類に大きく分類できるんだそうだ。瞬は、どちらかといえば後者のタイプだということだろう」
「どちらにしても、忘れないわけだ。人間の記憶というものは厄介なものだ」

過去に犯した罪や失敗を すべて忘れてしまったら、人は経験から何事かを学び取り 成長することができなくなる。
そうなれば、そもそも 人が何かを経験すること自体が無意味なことになるだろう――つまりは、人が生きていることが無意味なことになるだろう。
“忘れないこと”は、人間が生きていく上で非常に重要で必要なこと――少なくとも、成長向上を志向して自らの生を生きようとしている人間には重要かつ必要なことである。
それは氷河もわかっていた。
だから、彼は、瞬に『つらかったことは すべて忘れろ』と言うつもりはなかった。
だが、瞬の“忘れないこと”“忘れてはいけないと思っていること”は、ひどく負の方向に偏りすぎている。
氷河は、それが心配だったのである。

「瞬は、これからも幾度も幾つも つらいことを経験することになるだろう。それらのことを何一つ忘れず、つらかったことの記憶だけが増えていったら、それは いつか瞬の許容範囲を超えて あふれてしまう。瞬はつらかった記憶の山に押し潰されて、最後には瞬自身が壊れてしまうしかなくなる。――ような気がするんだ」
「それは、人間の記憶容量に、コンピュータのCPUのように限界はあるのかという問題になるな。限界があるならあるで 問題だし、無限なら それもまた つらさが募るだけということか」
「記憶容量というより、この場合 問題なのは、瞬の心と忍耐の許容範囲だ。瞬は、人に倍して強い人間だが、それでも限界はあるだろう」
「さて、それも何とも言えんな。限界はあるのかもしれない。だが、無限かもしれない。瞬は、星矢のように外に向かって無限に力を拡散させていくタイプの人間ではなく、内に溜め込むタイプの人間だが、人間の内なる世界というものは、へたをすると外界より深く広いものだぞ」
「……」

では、瞬は無限の苦しみと悲しみを、その身の内に いつまでも溜め込み続けることになる。
瞬の心は どこまでも深く沈み、漆黒の闇だけが その濃度を増すことになる。
それは、希望の闘士にふさわしい心のありようではないだろう。
氷河は、そう思っていた。
そして、紫龍は、氷河が そう思っていることを察し、今の氷河が自分の内に そんな考えを抱いている(のだろう)ことに、ある種の感懐を抱いていたのである。

「おまえは、幸不幸、どちらを重視するタイプなんだ。それとも すべてを忘れるのか」
「伊達に鳥頭で売っているわけじゃないぞ。俺は忘れる。俺は今だけを見る」
あれほど死んだ者たちにこだわっていた男の、この見事な変わりよう。
氷河を『今だけを見る』と断言するような男にしたのが――つまりは、今 現に生きている人間への執着を持つ男にしたのが――瞬だというのなら、これは どうあっても瞬には たくましく生き続けていてもらわなければならない。
それが、“アテナの聖闘士たち”という集合体に益をもたらすことだろうと、紫龍は思った。

「世の中には おそらく、そんなふうでいられない人間の方が多いだろうな。瞬が繊細すぎるとか、弱いとかいうわけではなく、おまえの方が特殊なんだ。瞬はむしろ、未来だけを見詰め、未来に向かって飛翔したいと望んでいるからこそ、多くの人間から未来を奪ってしまった自分に罪悪感を抱かずにいられないのかもしれない」
「かもしれん。瞬は自分のことを、幸福になっていいはずだった者たちから、幸福になる可能性を奪った人間だと言っていた」
「では、おまえが心配しているのは、瞬が自分が幸せでいることにまで罪悪感を抱いて、幸せを遠ざけようとするようになるのではないかということか」
「それもある――ような気がする」
「それある? 他にも何かあるのか」

紫龍に問われたことに、氷河は ひどく薄い笑みを浮かべただけで、明確な答えを返してこなかった。
自分の内にある懸念が、あまりに馬鹿げたことのような気がして。
そして、それが、あまりに我儘な懸念であるような気がして。






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