「見るべきものがないなんて、嘘ばっかり」 月はなかったが、代わりに そこには 夜空を白く染めるほど無数の星があった。 目に見える星が多すぎて、冬の大三角を作るシリウス、ペテルギウス、プロキオンを探すのも困難なほどである。 空全体に星の糸で編まれたレースのカーテンが掛かっているようで、しかもそのカーテンは光輝いていた。 気持ちよすぎる小宇宙のせいなのか、故郷といえる場所に帰ってきて心身が くつろぎきってしまったのか、眠りの魔法をかけられたオーロラ姫のように深い眠りに落ちている氷河をベッドに残し、瞬は一人で家の外に出た。 空気が刺すように冷たい――痛い。 何もかもが これほど 張り詰めて厳しい場所では、生ぬるく愚かな小罪や過ちは そもそも存在することが許されないような気がする。 卑俗で卑劣な詰まらぬ罪しか犯せない卑小な人間は、この冷たく厳しい世界に嘲笑われ、押し潰されてしまうだろう。 神のように いかなる罪も犯したことのない完全に美しい人か、悪魔のように 世界を覆い尽くすほど巨大な邪念の持ち主だけが生きていける世界。 今 自分の目の前にある世界を、瞬は そういうものと感じていた。 「綺麗な氷河は、綺麗なものが好きなんだって」 星に語りかけることはできない。 ここでは、星々が雲のように夜空を覆っていて、それらは個々の星として存在できていないのだ。 だから瞬は、その時、星に向かって呟いたのではなかった。 星ではなく――瞬は、世界に向かって呟いたのだ。 「僕は綺麗じゃない」 と。 こんなはずではなかったのだ。 瞬はこれまで一度たりとも 人を傷付けたいと思ったことはない。 人の命を奪いたいと思ったことは なおさらなかった。 瞬はただ、死ぬわけにはいかなかったのである。 『生きていたい』のではなく、『死ぬわけにはいかなかった』。 兄との約束を果たすために、『生きて もう一度兄と会う』という約束を果たすために、瞬は 死ぬことができなかったのだ。 ただそれだけのことのはずだったのに、いつのまにか、自分が生き延びることが 多くの人間の命を この地上から消し去ることと同義になっていた。 懸命に生きているだけのつもりだった自分が、ふと 気が付くと、全身を血で濡らし、罪で心臓を波打たせるものになってしまっていたのだ。 こんなはずではなかったのに。 いったい自分は、どこから人生をやり直せば 綺麗なままで氷河の前に立つことができるようになるのか。 氷河が鋭いナイフを突きたてるように『綺麗』という言葉を口にするたび、瞬の心臓は凍りついた。 もっとも、そうして凍りついた瞬の心臓は決して鼓動を止めることはなく、“罪”という赤い血で すぐに再び生きるための活動を始めるのだが。 「死んで人生を生き直す以外に、罪を消して綺麗になる方法はないのかな……」 そう呟いた自分の声が、それ以外の道はないと確信している声であることに、瞬は絶望的な気持ちになった。 兄との約束を守り 兄との再会を果たした時には『もう死んでもいい』と思ったのに、今は死にたくない。 だから、死んで綺麗な人生を生き直すことはできない。 今の瞬は、希望を持って生きる道をすべて ふさがれているも同然の状態だったのである。 そんな瞬の上に、ふいに どこからか不思議な声が降ってきた。 「そなたは、そなたが犯した罪を消してしまいたいのか?」 星の声なら それは、さらさらと音を立てて 夜の浜辺で波に弄ばれる砂の音に似ているのだろうと思う。 この世界の声なら それは、水や空気が凍りついていく時に発する 甲高い金属音に似た音なのだろうと思う。 瞬の上に降ってきた声は、だが、そのどちらとも違っていた。 低い男性の声。 それは、“もの”になど例えようのない人間の男性の声――に似ていた。 『似ている』と、瞬は思った。 瞬はそれを人間の男性の声そのものだとは思わなかった。 夜空にあるのは、白い霞のような星々で編まれたレースの天幕、地にあるものは水と空気が凍ってきらめくダイヤモンドの床、宙にあるのは無色透明の針が作る冷たい大気、瞬の50メートルほど後方に氷河が眠る小さな家。 そこにあるものはそれだけだったから――そこには人の姿などなかったから。 姿が見えなければ、人はどんな“不思議なもの”にも具体的な脅威を感じることはない。 声を発するものの姿が見えないという状況は、具体的な脅威ではなく、不安や恐れの感情を人の心の中に生むものだろう。 だが、今の瞬は、他の何ものにも凌駕できない別の不安と恐れに 心を苛まれていたので、他の不安が その胸の中に入り込む余地がなかった――恐くはなかった。 雪の女王が現われようと、氷の王が現われようと、この夢幻のような世界では何が起こっても不思議ではない。 そんな世界の住人になっていた瞬は、だから その声に答えることもできたのである。 とても寂しく空しい気持ちで。 「罪を消したい……? そう……そうなんだと思う。でも、そんなことは誰にもできないんだ……」 雪と氷の精霊なのか、地の精霊なのか、あるいは 雪と氷に覆われた この世界を守護するものなのか。 正体のわからない その声に、瞬は人間の友人に対するような答えを返した。 言葉を交わすことが恐い人は、今の瞬には氷河だけだった。 不思議な声が、やはり人間の友人のように親しみやすく穏やかな口調で 瞬に語りかけてくる。 「そんなことはない」 「え……?」 「余は、人の中にある罪を消し去ることができる」 夢幻の世界で他愛のない話をし、それきり二度と会うことのない精霊の類なら、その正体を知る必要もない。 そう思っていたからこそ――そうと はっきり意識していたわけではなかったが、この出来事を“夢の世界で起きていること”程度に思っていたから――その声が誰のものなのかを、瞬は知りたいと思わずにいたのである。 だが、『人の中にある罪を消し去ることができる』という彼の言葉は、瞬の中で、彼を“夢の世界の ただの通りすがり”ではない何かにした。 「あなたは誰」 本来なら、何をおいても まず最初に発せられるべきだった その問い掛け。 夢の世界を飛び出し、今 初めて はっきりと覚醒したような気持ちと声で、瞬は彼に尋ねた。 不思議な声が、瞬のそれとは対照的に気怠げで模糊とした響きをたたえて、瞬に答えてくる。 「そうだな……。ドラウプニルとでも名乗っておくか」 「 「冬には、世界は雪と氷でつながっているのだ。白い世界は、すべて余の支配下にある。そして、いずれは色のある世界も余のものになるだろう」 「あなたは……」 その声は決して 己れの邪悪な野心に意気込み、気負い立っているようではなかった。 抑揚は ゆるやかで、眠たげでさえある。 だが 瞬は、だからこそ、その声の主の自信――自分の持つ力への多大な自信――を感じ取ることになったのである。 この声を聞いてはいけない―― なぜ もっと早く――最初に この声に話しかけられた時 即座に――自分は その事実に気付かなかったのか。 そう後悔する数秒の時間も惜しんで、瞬は その声から逃げようとしたのである。 だが、足が動かない。 自分の身体の動きを封じているものが、正体のわからないものの魔力なのか、彼の言葉に惹かれた自分の心なのかは、瞬にはわからなかった。 (氷河……! 氷河、助けて……!) 声も小宇宙も封じられている――あるいは、それを封じているのは自分自身なのか。 そんなことさえ わからないまま、瞬は、白銀の夜の世界の中心に、たった一人で立ち尽くしていた。 |