「もうすぐだ、シュン。もうすぐ、おまえは蘇る」
光のない国――薄闇ばかりに覆われた国の一画で、今にも消えそうな弟の魂に、“すべての贈り物を与えられた者”は囁いた。
硬い表情の兄の心と身体に触れることなく、だが離れることもせず漂うばかりのシュンの魂が、兄の囁きによって悲しそうに震える。
「兄さん。僕はもういいの。人間に戻れなくても。自分の身体を持つことができなくても」
「何を言う。希望を捨てるな。私はおまえに希望しか与えられないんだぞ。その希望を おまえに拒まれてしまったら、私はどうすればいいんだ――兄はどうすればいい」

切ない兄の訴えに、彼の弟は沈黙する。
その沈黙は、自分が実際に弟に与えているものは希望ではなく不安なのではないかという思いを、不幸な兄の胸に運んできた。
だが、もはや 後戻りはできないのだ。
「大丈夫。きっと すべてが上手くいく」
小さな弟に そう言い置いて、彼は三巨頭の待つジュデッカに向かった。
あの3人で、アテナの聖闘士を何人片付けることができるだろうかと考えながら。
最低でも3人。
できれば相打ちという形が望ましい。
そう思いながら。



ジュデッカにある空の玉座の前に跪いて、三巨頭は 彼等をこの場に呼びつけた人物の来臨を待っていた。
パンドラが玉座の前に立つと、彼等は自然にパンドラに跪く格好になる。

「人間たちが この冥界に入り込んだそうだな。冥闘士たちは、アテナの聖闘士たちに次々と倒されている」
「そのようです」
パンドラに答えてきたのは天猛星ワイバーンの冥闘士ラダマンティスで、彼の口調は明確に不機嫌。
『それが わかっているなら、なぜ戦いの最中に我々を呼びつけたのか』と、言えるものなら言ってしまいたいのだろう。
もちろん、彼は、言いたい言葉を言ってしまうことはできなかったが。

「何が『そのようです』だ。私は、そんな間の抜けた言葉を聞くために おまえたちをここに呼んだのではない。潜り込んだネズミ数匹を退治するのに、おまえたちは どれだけ時間をかけるつもりだ。さっさとアテナの聖闘士たちを片付けろ。何が三巨頭か。ハーデス様のお役に立てない者は、おまえたちでも この冥界に存在することは許されない。そのことを忘れるな」
「はっ」
『ネズミ退治を急ぐのなら なおさら、このタイミングで我々に召集をかけるな』と、言いたいのに言えない。
ハーデスの姿がない時、冥府の王に代わって冥闘士たちに指示を出すのは、自身の冥衣も持たず、拳の一つも振るうことのない漆黒の男。
冥界統治の代行権を有するパンドラには、三巨頭といえど、逆らうことは許されていなかった。

「かねてより申しつけてある通り、アンドロメダの聖闘士だけは生きたまま ここに連れてくるのだぞ。ハーデス様が、そう お望みだ」
「アテナの聖闘士など、皆 葬り去った方がよろしいのでは?」
「ハーデス様のご命令に 意見するとは、知らぬ間に偉くなったものだな、ラダマンティス」
自分に対する三巨頭の不満は十分に承知した上で、更に彼等の神経を逆撫でするように居丈高に、パンドラはラダマンティスをなじった。
彼等が気に入らないのは“三巨頭に偉そうに指示を出す人間の男”であって、神であるハーデスではない。
もちろん、パンドラはその事実も承知していた。
だが、三巨頭の言葉の裏に潜んでいる彼等の真意や、彼等の腹の底にある考えなど、パンドラにはどうでもいいことだったのだ。

「そんなつもりは」
「私は同じ命令を二度 繰り返すつもりはない。おまえたちは、余計なことは考えず、ハーデス様が命じられた通りに動けばいいのだ」
「もちろん、仰せの通りに」
物言いたげなラダマンティスを制して、天貴星グリフォンの冥闘士ミーノスがパンドラの前にこうべを垂れる。
いかにも 渋々といったていで、ラダマンティスは同輩にならった。

ジュデッカからパンドラの気配が完全に消えるのを確かめて顔を上げた時、天猛星の冥闘士の顔は怒りのために引きつり歪んでいた。
「冥闘士でもない ただの人間なのに、あの男はなぜ あんなに偉そうに構えているんだ!」
当人の前では言えないことを同輩たちにぶつけることで鬱憤を晴らそうとしているラダマンティスに、天雄星ガルーダの冥闘士アイアコスが呆れたような顔になる。
三巨頭の一人が こんな見苦しい振舞いをする駄々っ子だということは、他の冥闘士たちには秘してかなければならない。
アイアコスの顔は、そんなことを考えている者のそれだった。

「ハーデス様のご意思を我等に伝えられるのは、あの者だけなんだ。仕方あるまい。ハーデス様はあの男以外の者を お側に近付けない」
「それは わかっているが、気に入らんのだ。あの男の悟りきって偉そうな顔と命令口調が!」
「まあ、おまえよりは はるかに美しい男だからな。おまえが反感を抱くのも無理はない」
ミーノスが いきりたっている同輩に冷めた微笑を向けてくるのは、自分が容姿でパンドラに劣っているとは思っていないからなのだろう。
ミーノスの自信過剰が不愉快で、ラダマンティスは むっとした。

「ハーデス様は美しいものが お好きなのだ。あの男も、アンドロメダの聖闘士というのも、そうなのではないのか」
「美しさ? そんなものに何の価値がある。どんな力があるというんだ」
「あるだろう。少なくとも、ハーデス様のお心を動かす力が」
否定できないミーノスの言葉に、ラダマンティスは 忌々しげに大きく舌打ちをした。


パンドラから厳しい叱責を受けた直後であるにも関わらず、三巨頭たちが 切迫感のない たわ言を言い合っていられたのは、ハーデスの力の支配が隅々にまで及んでいる冥界で、ハーデスの意を汲んで戦う自分たちが アテナの聖闘士に負けることはありえないと、彼等が考えていたからだった。
しかし、決して油断していたわけではない。
同じようにハーデスの加護を受けているはずの冥闘士たちが次々に倒されているのだ。
彼等は決して油断していたわけではなかった。

だが、神の加護を受けているという点では、アテナの聖闘士たちも冥闘士たちと同じ。
しかもアテナの聖闘士たちは、その聖衣に直接神の血を受け、生きたままハーデスの支配する冥界に足を踏み入れ、そこで自由に活動できる状態にあった。
その時点で、冥界のハーデスの結界や冥闘士たちへのハーデスの加護は破られていたといっていい。
三巨頭は、パンドラが期待したほどの戦果をあげることはできなかったが、パンドラが期待していた通りに、アテナの聖闘士たちとの戦いで 自らの命を片付けることは完璧に成し遂げたのだった。






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