「何だ、今の断固とした拒絶は」 普段は、その言葉も所作も しなやかで やわらかい瞬の、妙に神経過敏で硬い反応。 瞬の姿を呑み込んでしまったラウンジのドアを視界に映し、氷河が あっけにとられて呟くことになったのは致し方のないことだったろう。 氷河は、ただ、瞬の代わりに窓を閉じてやっただけ。 何気なく その髪に触れただけだったのだ。 だというのに、まるで変質者に声をかけられた女子中学生か何かのような瞬の振舞い。 それには、氷河も多少なりと傷付かないわけにはいかなかった。 「おまえ、何か よからぬことを考えてたんじゃないのか? 瞬は それを敏感に感じ取って――」 いつまでも瞬のいなくなった部屋のドアを見詰めている氷河に呆れたのか、星矢が無責任な邪推を披露してくる。 氷河は ほとんど無意識に、首を軽く横に振った。 「そうだったら、俺だって こんなに驚いたりはせん。俺は、俺にしては珍しく、いかなる助平心も抱かずに 純粋な親切心で窓を閉めてやっただけだったんだ」 瞬の態度によって受けた衝撃から まだ完全に抜け切っていなかった氷河が、その場に沙織がいることを失念し、つい本音を口にする。 氷河の正直な答えに、星矢はむしろ困ってしまったようだった。 「なら、頭の後ろに、見られると困るものでもあったんじゃないのか」 「見られると困るものとは何だ」 「そりゃ、頭の後ろにある、見られて困るものってったら、口に決まってるだろ」 「おまえは、瞬を妖怪二口女にするつもりか! 口が二つあるのはおまえの方だろう。俺には おまえの食欲の方がよほど信じられんぞ。夕飯を食った すぐあとに、うまい棒チョコレート味お徳用30本入りを綺麗に平らげるなんて、人類として、ありえん話だ」 「そこまで言うか!」 この展開を深刻なものにしてしまうと、氷河が立つ瀬を失うことになるだろうと考え、星矢は おそらく氷河のために“純粋な親切心”から そんな冗談を口にしたのだったろう。 その心優しい仲間に対して、随分な返礼。 感謝の心というものを知らない仲間を、星矢は早々に見限ることにしたようだった。 星矢に代わって舞台中央に(?)登場したのは、芸術を愛するグラード財団総帥にして、聖域を統べる女神アテナであるところの城戸沙織である。 彼女は、何やら思うところのある様子で、 「『井筒』を見たばかりだからかもしれないわね……」 と、氷河の聞いたことのない単語を低い声で呟いてみせた。 「いづつ? いづつとは何です」 「言葉の意味で言うなら、井戸の周囲。『伊勢物語』23段を元にして世阿弥が創作した能の演目でもあるわね。私と瞬が今日 観てきたものよ。世阿弥自身が『最上の花』と自讃したほどの傑作で、幼馴染みの二人が結ばれる物語なんだけど……」 「……」 幼馴染みの二人が結ばれる話。 実にめでたい話ではないかと、氷河は思ったのである。 それで、どうして、瞬が彼の幼馴染みを変質者のように避けることになるのか、氷河にはそこのところが全く合点できなかったが。 どこから何をどう見ても『理解不能』というしかない表情を浮かべている氷河に、沙織が両の肩をすくめ、当惑の視線を投げてくる。 そうして、結局 彼女は、今日 彼女と瞬が観てきたという“幼馴染みの二人が結ばれる物語”の概略を氷河に説明することにしたようだった。 「その二人は、いつも一緒に井戸の周りで遊んでいた、とても仲のいい幼馴染み同士だったのだけど、年頃になって互いを意識し合うようになって、会うことがなくなってしまったのね。でも、やがて男性の方が女性に歌を送ったの」 一度 言葉を切ってから、改めて沙織が詠ってみせたのは、どうやら問題の能のタイトルの由来となった歌――のようだった。 「 「意味は?」 氷河が口を開くより先に、星矢が歌の意味を沙織に尋ねる。 なぜ星矢が身を乗り出して、その歌の意味を知りたがるのかが解せない。 そういう顔をして、沙織は、星矢に その歌の現代語訳を教示することになった。 「幼い頃、井戸の囲いと比べていた僕の背は、あの頃よりずっと高くなりました。あなたと会わずに過ごしているうちに――というような意味ね。幼い頃の無邪気な自分たち、会わずにいた長い時間を悔いている今の自分、懐かしい人に会える未来を願う気持ちが すべて織り込まれた、なかなか優れものの歌でしょう」 “まさに幽玄”だった舞台の様を思い出したのか、沙織がうっとりしたように、井筒の歌の解説を述べ立てる。 その解説を聞いた星矢は、しかし、露骨に詰まらなそうな顔になった。 「なんで、そんな当たりまえのことを わざわざ歌にしたりなんかするんだよ。常識的に考えて、ガキの背が低くなるわけないだろ。なんだよ、おいしいイモの歌かと思ったのに」 「お……おいしいイモ…… !? 」 それまで、笑顔でなくなったとしても、せいぜい意識して作った苦り顔や困惑顔程度だった沙織の顔が、明瞭に怒りの様相を呈し始める。 意思の力では制御できない怒りの感情が、彼女のこめかみを ぴくぴくと引きつらせていた。 星矢の無風流かつ卑俗な発言が、沙織の高雅かつ繊細な神経を いたく刺激(悪い方に刺激)したらしい。 まさかとは思うが、おいしいイモや井戸のことで女神アテナが彼女の聖闘士に天誅を食らわせるようなことがあってはならない。 沙織の怒りのほどを察した氷河は、沙織の意識を星矢の上から逸らすべく動くことを余儀なくされた。 「そ……それで『井筒』ですか。幼かった二人の思い出の場所というわけだ。で、女の方は どういう歌を返したんです」 氷河が作り慣れていない追従笑いを その顔に浮かべ、沙織の怒りを和らげようとする。 それが いかにもぎこちなく、無理に作ったものだったことが、沙織の同情(?)を買うのに効を奏したらしい。 「あなた方でも、歌に歌を返すのが当時の礼儀だったことくらいは知っているのね。褒めてあげましょう」 と皮肉を言いはしたが、彼女は、氷河の無理な追従笑いに免じて、星矢と星矢の好きな おいしいイモへの怒りを爆発させることは思いとどまってくれたようだった。 気を取り直し、返歌の説明にとりかかる。 「その歌に 女性が返した歌は、『くらべこし 「……」 氷河はもちろん、歌の意味がわからなかった。 そして、その歌の主旨を知りたいという気持ちが皆無というわけでもなかった。 ただ彼は、さきほど星矢がしたように、ここで『意味は?』と訊いて沙織の機嫌を損ねることを恐れたのである。 その可能性を完全に否定できなかったせいで、氷河は知りたい歌の意味を問うことをせず、沙織の前で無言でいることになったのだった。 不自然な沈黙を守っている氷河の心情を察したのか、いずれにしても歌の解説が必要なことを承知していたのか、沙織が、氷河に求められる前に、氷河が求めているものを、氷河に提供してくれた。 「振り分け髪というのは、まあ、おかっぱ頭のことと思っていいわね。男女を問わず、当時の子供の標準的な髪形。『あなたと比べあった私の振り分け髪も肩を過ぎて すっかり長くなりました。私に髪上げをさせることができるのは、あなただけです』」 これで意味がわかったろうという目を、沙織が星矢と氷河に向けてくる。 残念ながら、星矢は歌の主旨を全く理解できていないようだったが。 そして、実は、氷河も今ひとつ、その解説だけでは歌の意味を理解することができなかったのである。 しかし、ここで『せんせー、意味がわかりませーん』と発言することは、アテナの聖闘士的に許されることだろうか。 その答えに至りかねて、更に無言状態を維持する氷河の脇から、星矢の恐いもの知らずな発言が飛び出てくる。 「今ので、現代語訳になってんのか? 俺、ちっとも意味がわかんねーんだけど。だいたい、そのカミアゲってのは何なんだよ。空揚げとは違うのか?」 「星矢、おまえは黙ってろ!」 危険を感知する氷河の闘士としての本能が、氷河をして、星矢への叱責り怒声を飛ばさせる。 この二つの歌を おいしいイモの空揚げの歌にしてしまったら、沙織は それこそ ここで女神の聖衣を装着しかねない――と、氷河の本能は氷河に向かって警告を発してきた。 アテナを敵にまわすことの恐ろしさを アテナの聖闘士である星矢が なぜ気付けないのか。 へたな邪神よりや 怒れるアテナの神の力などより、星矢の想像力のなさこそが、いつかアテナの聖闘士たちの許に全滅の時を運んでくるのではないか。 そんな今更なことを、今更ながらに、氷河は思ったのである。 星矢の おいしいイモ発言には柳眉を逆立てた沙織は、だが、どういうわけか星矢の空揚げ発言には全く憤った様子を見せなかった。 それは、どうやら、彼女が最初から“空揚げ”ならぬ“髪上げ”の説明をする心積もりでいたからだったらしい。 『カミアゲとは何なのか』という星矢の質問は、つまり、城戸先生にとっては 非常に良い質問だったのだ。 「昔はね、女性がおかっぱ頭でいるのをやめて、髪を結い上げるのは、大人になって結婚する時だったの。つまり、井筒の女性は、『あなた以外の人の妻になりたくはありません』と、幼馴染みの男性に歌を返したわけよ。そうして、二人はめでたく結ばれたの」 「……」 沙織の説明を聞いた氷河が、また沈黙する。 それは沈黙の維持ではなく、二度目の沈黙だった。 氷河が作った二度目の沈黙は、沙織の機嫌を案じるがゆえのものではなく、沙織の言わんとするところを理解し、その理解が彼の中に生んだ苛立ち、合点のいかなさ、煩悶等によって新たに生じた沈黙だった。 そこまで説明されて、氷河は、沙織の言わんとするところが やっとわかったのである。 わかりたくなかったのだが、わかってしまったのだった。 「つまり、沙織さんは、さっきの瞬の断固とした拒否は、俺のために髪上げはできないという瞬の無言の意思表示だと言いたいわけですね」 持てる力の強さのレベルはともかく、上背だけは沙織よりある氷河が、高いところから彼の女神を睥睨する。 低く抑揚のない声、据わりきり殺気だった目付き、氷河の身体を包む険悪そのものの空気。 今度は、沙織の方が、慌てて 氷河の機嫌取りに走る番だった。 「そ……そうは言わないけど……。『井筒』を観るのは、瞬も今日が初めてだったの。そういう能を観たばかりで、髪を上げることに特別な意味があることを知ったばかりだったから、瞬も色々 考えるところがあったのではないかと、ちょ……ちょっと思っただけで……」 「ほう」 「も……もちろん、私は、あくまで可能性の一つを提示しただけで、それが事実だと断じているわけではないのよ」 「それは ご親切に」 「え……いえ……礼を言われるほどのことでは――」 地を這うように低い――否、むしろ、地獄の最下層で のたうち蠢く悪霊のように低い氷河の声に、沙織は少しばかり――否、大いに―― 強大な力を持つ女神といえど、常に最強の存在たり得るわけではないのだ。 人には、神に逆らっても失うことのできないもの、命をかけることになっても譲れないものがあり、そういうものを抱えた人間は、文字通り 何ものをも恐れない。 むしろ、恐れを忘れる。 伊達に地上の守護神、人類の庇護者と評されてきたわけではないのである。 沙織は、恐れるものを持たなくなった人間の強さというものを よく知っていた。 「あ……ああ、そう。私も着替えなくっちゃ。紫龍、あとはお願いね!」 「どーして、俺なんです!」 神は、時に無責任なまでに非情・冷酷・無慈悲である。 それまで完全に部外者の立場にいた紫龍に後顧を託すと、沙織は さっさと その場から逃げていってしまったのだった。 |