「それは……希望が力を与えてくれるからだろうな」
「希望?」
「そう。俺たちの得意技の」
「僕たちの得意技?」
「なにしろ、俺たちは希望の闘士だそうだから」
首をかしげてみせる瞬に、氷河は真顔で頷いたのである。
今ここで瞬に希望と笑顔を取り戻させることができなかったなら、自分はアテナの聖闘士失格だと思いながら。

「アテナの聖闘士の中でも、俺たちは特に得意だろう。物を凍りつかせるのは 水の水素原子を結びつけることだし、おまえのチェーンは、対象物を掴まえて離さないためのものだ。人と人が結びつき、物と物が結びつくことで、世界には新しい場面や状況が生まれる。希望も多分」
それは、たった今 氷河が思いついた無理なこじつけだった。
その乱暴な こじつけを聞いた瞬が その目許に ほのかな笑みを浮かべる。
「面白い理屈」
「面白くていいんだ。深刻にならずに、だが、本気で、いつまでも一緒にいたいと願うだけで。その願いは、不安を生むかもしれないが、おそらく同時に希望も生む」
「氷河」
希望と不安は、結局は同じものなのかもしれない。
同じように不確実で、同じように漠然としたもの。
だが、そうであればこそ、不安をも希望に変えてしまった方が、人は未来に向かって生きていきやすくなるだろう。

「別れが恐いと思うのは、別れたくないと思う相手が好きだからだ。おまえは俺が好きなんだ。その心だけは疑う必要はない。俺が保証する。今 俺たちに必要なのは――俺たちが希望を持つのに必要なのは、その事実だけだろう」
「それは氷河に保証してもらわなくても、ちゃんとわかってるよ。僕は氷河が大好きなの」
「そ……そうか!」
それが事実でさえあれば、何でも許されると思っていたわけではない。
瞬は許してくれるだろうと思ったからではなく、瞬に その事実を事実と認めてもらうことによって 新しい希望を与えられたような気がして――氷河は 希望を抱きしめるような気持ちで、思わず瞬を抱きしめてしまっていたのだ。
瞬は、氷河の腕と胸から逃げようとはしなかった。
瞬の身体を抱きしめたまま、右の手を瞬の うなじにまわし、その髪に触れる。
それでも、瞬は逃げなかった。

「やっと触らせてもらえた、おまえの髪」
笑って、瞬の耳許で囁く。
氷河はどんな他意もなく、ただ事実を喜び、その事実を言葉にしただけだったのだが、それは瞬の中に罪悪感を生じさせてしまったようだった。
瞬が小さく肩を震わせる。
氷河は慌てて、瞬を抱きしめていた腕を解き、その顔を覗き込んだ。
「あ、いや、おまえを責めているわけではなく――おまえの髪に触らせてもらえないことで、俺は星矢たちに言いたいことを言われっぱなしだったから、一度 奴等の目の前で、おまえの髪をまとめてみせて、俺たちのことを報告がてら得意がってみせようかと――」
「氷河になら、僕、ポニーテールにされても我慢するよ。ただし、1日だけ」
そう言って、瞬が、その細い指で、自分の髪を ひと房、無造作に掴んで持ち上げる。
普段は髪で隠されている瞬の うなじが髪の間から覗き、その驚くほどの白さと細さに、氷河の心臓は大きく撥ねあがった。
仮にも肉体を用いての戦いを生業としている聖闘士が、こんな細い首をしていていいものなのだろうか。
その気になれば 片手で掴み、へし折ることも簡単にできそうな瞬のうなじ。
その頼りない細さと白さは、同時に妙に なまめかしく、蠱惑こわく的でさえあった。
何というものを 瞬は隠し持っていたのだろうかと、氷河は、胸中で驚き、焦ってしまったのである。

「そうだね。星矢と紫龍には、僕、たくさん心配をかけたから、僕たち 仲直りしたって報告がてら、お礼に行こうか」
「え? あ、いや、それは明日でも――」
「僕の臆病のせいで、氷河が星矢たちに からかわれていたのなら、氷河の名誉回復は早い方がいいでしょう」
「俺は、俺の名誉など――」
俺の名誉など、一生 地に落ちたままで構わない――と氷河は思っていた。
なにしろ、氷河は、名より実をとる大陸的合理性の持ち主だったのだ。
しかし、瞬は、恥の文化を背負った日本人。
瞬は、氷河の名誉の回復は、何ごとにも優先されるべき重大事と考える人間だった。

そして、瞬に逆らうことのできない氷河は――特に今は逆らえない氷河は――結局、瞬の無邪気な決定に従うしかなかったのである。
その結果、氷河は、名誉の回復どころか、仲間たちに更なる侮蔑の言葉を贈られることになってしまったのだが。
瞬に対しては、
「よかったな、瞬。これで俺も安心して、食後に うまい棒を30本食える生活に戻れるぜ」
と にこやかに祝辞を述べた星矢が、氷河に対しては(瞬に聞こえないようにではあったが)、
「礼だの報告だの、んなもん いらねーんだよ! おまえ、なんで、そこで瞬を押し倒さなかったんだよ!」
と辛辣な罵倒を繰り出してきてくれたのだ。

「いや、それが、瞬の髪とうなじが、何というか刺激的すぎて、つい逆らえなくて、ふらふらと――」 
「フツー、刺激的だから押し倒すんだろ! 刺激的だから逃げるなんて、男の風上にも置けねー奴だな。なっさけねー」
「俺は逃げたわけでは……」
「アテナの聖闘士が言い訳などするな。見苦しい」

こうなると、瞬の心を確かめることができ、瞬の髪に触れることができるようになっただけでは、氷河の名誉は回復されそうになかった。
星矢たちが何をもって白鳥座の聖闘士の名誉の回復を承認することになるのかは、氷河にもわかっていたのだが、そのために瞬との関係を より深いものに進展させるべく努力するわけにはいかない。
それは、瞬に対して失礼というものだろう。
だが、だからといって、そのための努力をせずにいることもできない。
なにしろ、氷河の心身は今、瞬のあの細くて白い うなじを、思う存分 愛撫し 口付けてみたいという強い衝動にかられ、それ以外の すべてのことへの意欲を失いつつあったのだ。

繊細な瞬の心と、仲間たちの親切で辛辣な友情、自分自身の切実な欲望。
微妙に異なる様相を呈している それらの中で、それらのどれをも排除することなく、氷河は瞬との恋の舵取りをしなければならないようだった。
幼馴染み同士の二人が、幼馴染みの友人たちに見守られる中で、その恋を実らせることには、かくも困難がつきまとう。
それでも人は 希望をもって、自らの人生の困難に立ち向かっていかなければならないのだ。もちろん。






Fin.






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