最後に勝つもの

〜 あこさんに捧ぐ 〜







14世紀後半。
現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を支配していた神聖ローマ帝国の貴族や各都市は、ローマ教皇を支持する教皇派と神聖ローマ皇帝を支持する皇帝派に分かれ、互いに争っていた。
その争いは既にフランスやスペインにまで飛び火し、欧州全体を巻き込みつつある。
二つの党派の対立が始まって300年余、その争いは治まることを知らないようだった。
11世紀初頭 神聖ローマ帝国の帝位争いに端を発したその対立は、いつしか本来の対立の意味を失い、対抗し合う都市同士の争い、あるいは 貴族同士の派閥抗争における 両勢力の便宜的な分類に利用されるだけのものになっていたのだから、それも当然のこと。
あちらの町が教皇派なら、こちらは皇帝派、あの侯爵家が皇帝派なら、こちらは教皇派。
教皇派であるか皇帝派であるかということには政治的意味合いは全くなく、それらの呼び名は ただ、ある二つの陣営が対立し合うものだということを示す記号にすぎなくなっていたのである。

もしかしたら人は、敵を作り 敵と対立することで自らの存在意義を確かめようとする生き物なのかもしれない。
他者と対立することなく自身の存在の意義を確信できる幸運な人間なら、対立の外から そう思うこともできたことだろう。


そんな時代、欧州の東の果てにあるN王国。
N国は、建国の時から ただの一度も王朝交代が起きることなく、一系の王室に統べられてきたという点で、欧州各国の中でも特異な地位を占めている国だった。
とはいえ、王室一系を誇るN国とて、常に一人の王の下に団結していたわけではない。
N国にも 互いに互いを宿敵と認め合う二つの有力な名家があり、両家の対立はN国の建国以来の歴史とほぼ同じ長さの歴史を有していた。
北の公爵家と南の公爵家。
財力や武力では、ほぼ互角。
国内の他の貴族たちも、ほとんどが両公爵家のどちらかの陣営につき、国は真っ二つに分かれて対立し合っていた。
両家の上に王家があるから、かろうじてN国は一つの国としてまとまっていると言っていいありさま。
逆の見方をすれば、両家の対立があるからこそ、中立の立場で両家以上の権威を持つ存在として、N国の王室は必要とされているのかもしれなかった。

北の公爵家と南の公爵家の対立の歴史は、N国建国神話の時にまで遡る。
天上の主神の子であるN国初代の王は、この地上に降臨した際、そこで二人の妻を得た。
牧畜を営んで暮らしていた北方の民の長の娘と、農耕を営んで暮らしていた南方の民の長の娘。
王は二人の妃を同じ深さを持って愛し、二人の妃はそれぞれに一人の王子を儲けた。
王は、妃たちの間に対立を生むことのないよう、二人に平等に接していたのだが、それが かえってN国の王室内に争いの種を撒くことになってしまった。
北と南、それぞれの妃にくみする者たちが、自分たちの支持する妃の産んだ王子こそがN国の次代の王になるべきだと主張して、争いを始めてしまったのである。

このままでは、国が二つに分裂してしまう。
国の未来を憂えた王が 天なる神に神託を求めたところ、神は、王の二人の妃から1本ずつ骨を取り、その骨から一人の人間の女を作った。
そして、その女を 王に第三の妻として与え、N国の王位には、この女から生まれた王子と その血を受け継ぐ者のみが就くようにと命じたのである。
その命令が守られている限り、N国とN国の王室は滅びることはなく、北方の民の妃が産んだ王子の家、南方の民の妃が産んだ王子の家もまた 滅びることはないだろう。
それが、天なる神とN国の王室との間に結ばれた契約だった。

その契約は守られ続け、今に至る。
N国は建国の時から 1500年以上の長きに渡って、1つの独立した国として欧州の東の果てに存在し続けた。
N国の歴史と同じ長さだけ、北の公爵家と南の公爵家の対立もまた続いている。
二つの公爵家は長い対立の歴史の中で衝突を繰り返し、時には武力をもって戦うこともあった。
そのたび、王家が南北公爵家の仲裁に乗り出し、両家は戦いの矛を収めざるを得なくなる。
であればこそ、南北の公爵家は、いずれか もしくは両家が滅亡することはなかった。
しかし、であるからこそ、両家の対立は続き、両家の怨恨もまた消えることなく募っていったのである。






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