それはさておき。
家令の言葉に、氷河は驚いたのである。
もちろん、尋常でなく驚いた。
北の公爵家と南の公爵家の確執が生じた建国の時にまで歴史を遡り、考え、幾度か王宮で見掛けたことのある南の公爵の姿を思い起こして、氷河は その驚きを更に大きく深いものにした。
南の公爵に弟がいるという話を、氷河は聞いたことがなかった。
否、氷河は そもそも世間の噂というものに耳を傾けたことがなかった。
氷河が注意深く聞く事柄は、南の公爵家で養う私兵の増加数、それに伴って贖われた馬の数、武器の数等、“事実”の報告ばかりだったのだ。

「噂など、いい噂も悪い噂も信じるに足るものはないと思っていたが、真実を伝える噂というものも、たまにはあるんだな。これは確かに、北の薔薇も南の百合も色褪せさせるものだ」
薔薇は北の公爵家の紋章、百合は南の公爵家の紋章。
共に、建国の王に両公爵家にそれぞれ与えられたものと伝えられていた。
そのどちらをも色褪せさせてしまうもの。
とはいえ、氷河に その噂を肯定させたのは、瞬の姿形の美しさより、その澄み切った瞳の方だったが。

平生の現実主義実利主義の氷河らしくなく――南の公爵の弟が北の公爵家にいる事実より、噂が語る事柄の意味を解釈することに かまけている従弟に、紫龍は呆れてしまったらしい。
彼は、今は現実を見ろと、同い年の従弟を 怒声で促してきた。
「阿呆! 自分が何をしたのか わかっているのか。南の公爵家だぞ。1500年に渡る、当家の宿敵にして怨敵、不倶戴天の敵。そこの当主が溺愛している、たった一人の弟を、おまえは宿敵の家に さらってきてしまったんだ。南の公爵がどう出るか――」

1500年の長きに渡る宿敵。
だが、この500年ほどは、両家の間に直接の武力衝突は起きていなかった。
二つの有力な公爵家の対立の上に維持されてきた平和の時が破られることを、紫龍が懸念し、回避したいと思っていることは、氷河とてわからないわけではなかったのである。
それは当然、氷河も同じ考えだった。
ただ、瞬が、両家の平和の崩壊の原因になることはあり得ない――あってはならないことだとも、氷河は思っていたのである。
そんな氷河の思いを代弁してくれたのは、他でもない南の公爵の実弟その人だった。

「そんな悲しいことを おっしゃらないでください。僕は、北の公爵様に どんな恨みも憎しみも感じていません。雨に降られ、足を失って困っていたところを救ってくださった ご親切に感謝する気持ちしか」
「俺もだ。だいたい、ついさっき 初めて知り合ったばかりの者を、どうすれば恨んだり憎んだりできるというんだ。俺はまだ20年しか、この世界で生きていない。1500年来の宿敵だの怨敵だのと言われても、自分が生きていなかった時のことなど、俺の知ったことじゃない」
氷河が南の公爵家の兵や馬の数を気にするのは、それが“今”のことだから――それが、今、北の公爵家に対抗するために行なわれていることだと思うからだった。
つまり、過去の確執のためではなく、今の北の公爵家を守るため、両家の力の均衡を破らないため。
それ以下でもそれ以上でもなかったのだ。

「嬉しい。僕も氷河と同じ考えです」
氷河の言葉を聞いて、瞬が嬉しそうに瞳を輝かせる。
氷河は、瞬に 爵位ではなく自分の名前を口にしてもらえたことが嬉しく、少し くすぐったい気持ちになった。
そんな二人が、全く危機感を抱いていないように見えたのだろう。
氷河と瞬の顔を交互に見やり、紫龍が長く深い溜め息を洩らす。
「君と氷河はそれでいいかもしれんが、他の者は――君の兄上もそうだといいが」
「兄は……」
おそらく、瞬の兄は、弟と同じ考えではいないのだろう。
紫龍の呟きを聞くと、瞬は眉を曇らせ、そのまま切なげに瞼を伏せてしまった。

そんな瞬に一瞥をくれてから、紫龍が彼の従弟の方に向き直る。
「おそらく、南の公爵家から 迎えはこないぞ。親切心や厚意から 弟が北の公爵家に招かれたのだとは、南の公爵は考えないだろう。何らかの企みがあって、北の公爵は南の公爵の弟を さらったのだと考える。もし この城に南の公爵家からの迎えが来ることがあったとしたら、その迎えの者たちは全員 武装しているだろう。数も一人二人ではなく、最低でも千人規模だ」
「……」
紫龍の推測は正鵠を射たもので、このまま何もせず手をこまねいていれば、いずれ彼の言葉は現実のものとなるだろう。
襲爵から半年の間、氷河とて伊達に両家の力の均衡に心を砕いてきたわけではないのだ。
それがわからない氷河ではなかった。

北の公爵が 森の楠木の幹に突き立ててきた北の公爵家の紋章入りの剣は、既に南の公爵家の者の目に触れてしまっただろう。
北の公爵が瞬に出会わなかったことにして、人に知られぬように瞬を南の公爵家に運び、秘密裏にすべてを旧に復することは もはや不可能である。
南の公爵は、大切な身内を宿敵に さらわれたと思い込み、今頃は 怒りを募らせているに違いない。
そして、彼は、瞬を取り戻すためになら どんなことでもするだろう。
自分が瞬をさらわれた側の立場にあったなら必ずそうすると、氷河は思った。
もちろん、瞬を自分の手から奪っていった者を、決して許さないだろう。
瞬を取り戻し、瞬を奪った者を成敗する。
そのためには、兵を動かし、武力をもって当たるのが てっとり早い。
相手は、1500年来の宿敵の家の当主。
瞬の兄には、実力行使を ためらう理由は何ひとつない。
そうして、詰まらぬ誤解のために、南北の公爵家は ついに正面衝突し、この国の都は戦場になるのだ――。

さすがに その事態は避けなければならないだろうと、氷河は思った。
だが、どうすれば その事態を避けることができるのか。
氷河が真剣に対処方法を考え始めた時、瞬が、突然、
「僕を しばらくここに置いていただくことは可能ですか」
と、深刻な響きのない声で尋ねてきた。
もっとも、それは質問の形をとった提案、提案を装った決意の表明だったが。
「兄さんにとって、僕はたった一人の身内なの。少しでも僕の身に危険が及ぶ可能性があることはしないと思います。大丈夫ですよ。僕がこちらのお城にいる限り、兄はここを攻めてることはありません。どうにもできないことに兄が焦れて、我慢の限界が来た頃に、僕が兄に手紙を書きます。『北の公爵家と仲直りしてくれたら帰ります。氷河にはとても親切にしてもらいました』って。きっと それで1500年来の宿敵は仲良しの両家になれますよ」
瞬は にこにこ笑いながら、そう言ってきたのだ。

「そう うまくいくものか。1500年の宿敵同士だぞ」
うまくいくことを望んでいないわけではないのだが、つい否定的な言葉が氷河の口を突いて出てくる。
瞬は、しかし、氷河の悲観を否定した。
「でも、兄さんだって、1500年も北の公爵家を憎み続けてきたわけではないですし……。兄さんは、とっても優しいの。兄さんが僕の願いをきいてくれなかったことは、これまで一度もありません」
瞬の言葉は事実なのだろう。
自分が瞬の兄でも、目に入れても痛くない可愛い弟と思い、どんな願いも叶えてやる兄になるだろうと思う。

その可愛い弟が1500年来の宿敵の城にいる。
最初のうちは、その事態に苛立ち、力づくでも取り戻そうとするだろうが、弟の身の安全を考えれば無謀なことはできない。
やがて、弟を奪われた兄の心は、弟を無事に取り戻すことができるのなら、祖先の恨みも憎しみも どうでもいいと感じるようになる。――かもしれない。
弟の無事な姿を見るためになら、多少の屈辱、侮辱、不利益も甘んじて耐えようという気持ちになる――かもしれない。
少なくとも、自分が瞬の兄なら、そう考えるようになる。
会って話をしたこともない祖先の恨み憎しみより、今 生きて自分の側にいる肉親の優しさ温かさの方が はるかに価値があると、瞬の兄が馬鹿でないなら気付くはず。
そう、氷河は思った。

だから、氷河は、瞬の提案に乗ってみることにしたのである。
あまりにも楽観的すぎる瞬の提案に不安の思いを隠せないでいる紫龍や家令の視線を無視して。






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